吃音でもタイガー・ウッズさんのように生きる

世界的に有名な彼も吃音者。タイガー・ウッズ選手も子どもの頃からどもりがあったようですが、なんと飼い犬に話しかけ、ゴルフに集中する事で徐々に吃音を克服したとのこと。これを見る限りだと直接吃音治療の効果があるとも思えない方法であるため、脳科学に基づくM.R.Mのような「吃音であることを忘れる」ということを実践したのではないかと思われます。それでは彼の吃音人生を見ていきましょう。

すごかったのは子供のころから

今は腰のけがで苦しむタイガーウッズ。幼いころからその天才ぶりはうごかったというエピソードはありますが具体的にはどんなものだったのか。

実は2歳でゴルフクラブを握り、4歳になると南カリフォルニア州の10歳以下の9ホールの試合でなんと10歳児親ぶってしまったのです。さらに8歳になると70代のスコアをたたき出すようになったわけです。13歳になれば、全国規模のトーナメントに出場してしまうわけです。

実際には生後9か月で父親であるアールウッズの手ほどきでゴルフを始めたといわれています。ちなみに父親はグリーンベレーの退役軍人という職歴です。これは意外に知られていません。ゴルフに関係していたわけではないのです。

タイガーウッズよりも話題になったキャディ

かつて、タイガーウッズのキャディを務め、数々の勝利を挙げてきたスティーブウィリアムス(今はアダムスコットのキャディを務めています)がタイガーウッズの暴露本を出版しました。この内容がいかにもダークで様々な憶測を呼んでいます。タイガーウッズと過ごした13年間でお互いの信頼関係どころかタイガーウッズから奴隷のように扱われたという表現をしています。この内容に対する世論の反応は明らかにタイガーウッズに同調する声が多く、スティーブウイリアムスの批判の声のほうが明らかに大きくなっています。タイガーウッズがある程度の激情を持っていることはテレビからも見て取れるところ、そして天才ゆえの動きということが見えているのかもしれません。

40歳でもこれから活躍できるか

あのタイガーウッズもとうとう、40歳。最近はツアーにも顔を出さず、腰の治療に専念している状態ですが、ある汽車の話では2歳のころからゴルフクラブを振り続け、複数回に及ぶ腰の手術のおかげで、歩くさまも小幅でまるで若かりし頃の悠然とした姿はかんじられないとうわさされています。復帰に向けての道筋どころか、歩く姿は70歳と揶揄されているほど。こんな米国の記者の記事が出るくらい、タイガーウッズの体調は思わしく内容です。正直、今のアメリカーツアーで40歳といってもまだまだバリバリ減益といっても過言ではありません。同年代のフィルミケルソンといった過去のライバルたちもまだまだ頑張っているので何とか、復帰してもらいたいのがファンの本音。

桂文福さんはこうして吃音を治したらしい!

小さなころから吃音だったらしいですが、落語の世界に憧れて入門されました。その後、師匠のすすめもあって吃音やナマリをそのままだした新作落語に取り組んでいます。相撲甚句、河内音頭などが有名ですよね。こうしてみると三遊亭圓歌さんも桂ざこばさんも吃音ですね。落語会には吃音者が多いというのも不思議です。それでは桂文福さんの吃音人生を見ていきましょう。

桂文福さんってどんな人?

1953年(昭和28年)3月31日で早生まれの現在61歳!

和歌山県紀の川市桃山町出身で、本名は田中登さんです。

170cmで103kgとなかなかどっしりした体型のマイペースなB型。

趣味は、カラオケ・鉄道を乗り継いでの1人旅に、昔からのファンである大相撲観戦(元横綱の曙や元大関の小錦と親交が深い)・マンガを描くこと(上方落語協会の協会新聞で四コママンガを連載しています)などとても多趣味です。

県立粉河高校卒業後に大日本印刷大阪工場に就職して1度は社会人になりますが、1年後に脱サラして19歳で三代目・桂小文枝(五代目の桂文枝)に弟子入りします。

現在、(有)文福らくごプロモーションの代表、全国市町村で開催している「ふるさと寄席」の座長、吉本興業の落語プロジェクトに参加するなど意欲的に活動しています!

どんなお弟子さんがいるの?

桂茶がまさん(よしもとクリエイティブ・エージェンシーにも所属し、コシノグランドコレクションのモデルさんも務めています!持ちギャグは‘’や〜らしいわ〜‘’)、桂文鹿さん(落語家さんとしての活動だけでなく、引退されていますがプロボクシング選手でもあり、師匠同様大相撲の大ファンでもあります)、桂まめださん(よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属する芸人さんで、特技は皿回しで、緑色の髪が特徴的です)・桂ぽんぽ娘さん(東京出身ながら、上方で江戸弁落語家として活躍中です)etcなど、才能あふれる若手さん達が弟子入りしています。

廃業してしまいましたが桂ぽんぽこさんや、他にも桂和歌ぽん・桂恩狸さんなど、何となく全員たぬきを連想させる芸名で統一されています。

魅力的なエピソード&受賞歴!

中学生の時は相撲部に所属、高校生の時は美術部&柔道部に所属し、現在多趣味なのも頷けます。

内弟子時代に、桂文枝師匠へのお客様にコーラを出すつもりで麺つゆを出したことがあるそうです。

(何故か麺つゆがコーラの瓶に入っていたため)

(ちなみに、弟子の1人の桂まめださんも天然で有名で、桂文福さんはあまりの天然ぶりにまめださんの親に電話をかけたそうです。)

弟子入りして7年後、28歳の時に「第2回ABC落語漫才新人コンクール」で審査員奨励賞を、翌翌年から2年連続で 「第11回日本放送演芸大賞」ホープ賞を受賞します。

和歌山での活動が評価されて「和歌山県文化奨励賞」「和歌山県桃山町民特別功労賞」「和歌山県桃山町第1回ふるさと文化賞」も受賞されています!

どもりがなんだ!スキャットマン・ジョンさんが吃音を改善した意外な方法

はじめて彼が私と同じ吃音者であると聞いたときはびっくりしました。吃音を逆手にとり、早口で歌う「テクノスキャット」は大ヒットしました。あの「ぴーぱっぱぱらっぽぅ、ぱらぱらぱらぱらぴーぱっぱぱらっぽぅ」というあれです。ちなみに「スキャットマン基金」とは吃音者支援の団体でいかに吃音に注力していたかがわかります。

プリンのCMでお馴染みの

スキャットマン・ジョンという名前だけを聞いてもピンとこない人が多いかもしれませんが、90年代にプリンのCMで「プッチンパポペ~♪エビバディプリンプリン♪」というCMソングを歌っていたおじさんと言われれば、20代以上の年代の人は覚えがあるはずです。

白のセットアップに白のハットを被って口ひげを生やしたあのおじさんがスキャットマン・ジョンです。

彼の曲はスキャットという独特の技法を用いた歌唱法が特徴で、「ドゥビドゥバ」や「シャバダバ」のように自らの声をまるで楽器の音色のように操ることで、一つのサウンドを作り上げていました。

スキャットはジャズなどの即興性の高い音楽に取り入れられることが多く、日本でも「夜明けのスキャット」や「恋のフーガ」でも聴くことができます。

吃音症と幼少期

スキャットマン・ジョン、本名ジョン・ポール・ラーキンは子どもの頃から吃音症という障害を抱えており、言葉を上手く発することができない、どもるなどの症状に悩まされていました。

そのため人前で喋ることに不安を抱え、言葉以外の表現方法を探しているうちにピアノと出会い、10代の頃からジャズクラブでジャズピアニストとして活躍をしています。

しかし次第にアルコールやドラッグに溺れるようになり、一時期は音楽と離れていた時期もありました。

40代になると妻の助けもあり、それらの依存症を克服すると共に、自身の吃音症とも真摯に向き合うようになります。

そこで吃音症を生かしたスキャットという歌唱法に出会い身につけることで、スキャットマン・ジョンが誕生することになります。

遅咲きのデビュー

40代後半から50代になり別の仕事をしていたスキャットマン・ジョンは、テクノやヒップホップのサウンドに自信のスキャットをミックスさせた曲を作ることで一大ヒットを成功させます。

吃音に悩む人たちに向けたメッセージや今までにない創作性の高いサウンドは世界中で大ヒットをして、日本でもアルバムが250万枚のダブルミリオンセラーを記録するなど爆発的な人気を博しました。

日本の吃音者団体とも交流があり、イベント活動に参加をしたり賞金を寄付したりなど、吃音者の社会的認知に向けても盛んに行動を起こしていました。

晩年になると咽頭がんを患っていたこともあって、ヴォーカルを他のアーティストに任せ、自身の音楽活動は控えることになりました。

1999年に亡くなってからも妻が率先してスキャットマン基金という吃音者団体を設立して、吃音に悩む人たちをサポートしています。

意外!桂ざこばさんもじつは吃音持ちだったらしい!

私はらくごのごで好きになりました。軽妙なトークで人気の落語家さんです。吃音を逆手にとった落語が特徴です。吃音を落語に活かすのは桂文福さんと同じですね。それでは桂ざこばさんの吃音人生を見ていきましょう。

幼い頃から波乱万丈の人生を歩んできた 桂ざこば氏

桂ざこば氏は小学校2年生の時に両親が離婚した上に警察官だった父親に引き取られるも3か月ほどで父親は自殺によって亡くなったのです。

その後、中学校へ進みそこでは学校をサボりながらも落語を見ていたそうです。その頃から3代目桂米朝の芸に惚れ込み、弟子入りを何度も何度も志願したのだが入れてくれなかったそうです。

そして弟子から言われた事は「高校だけでも卒業した方がいい」ということだったそうです。そして高校を志すも、中学時代の担任からは、「お前に行ける高校はないぞ」と言われ、その旨を聞いた米朝氏は入門を許可したのです。

またその入門前に就職を勧められ直前に働いたりと幼い思春期に波乱万丈な経験をしている桂ざこば氏であったのです。

お世話になった師匠との別れ

桂ざこば氏は3代目桂米朝の芸に惚れ込み、弟子入りをしたのです。そして彼は波乱万丈の人生を歩んできた時に、米朝師匠と家族同然の様に落語会を歩んできたのです。

そして落語家で人間国宝とまで言われた、桂米朝氏は89歳にして2015年に他界したのです。

桂米朝氏は2009年から数回に渡り脳梗塞を患っていたのです。

それでも、ひたすら持ってるパワーを持ち続け彼は何度も回復の兆しへ向かったりと戦ったのです。しかし、2014年にまた再度入院から危篤状態となり、2015年に桂米朝氏は他界したのです。

その後、弟子であった、桂ざこば氏はコメントを残したのです。

「こないに上手に、こないにキレイに亡くなるとは…」とここまで師匠と家族同然に過ごした人がこんなに戦い生き、天国へ行く時も素晴らしい終わり方をしたのだと思います。

いつしか華の舞台に

桂ざこば氏は波乱万丈な人生を経験しながらも桂米朝氏のところへ弟子入りしてから、稽古特訓の日々が始まったのです。

そこからいつの日にか、千日劇場やトップホットシアターに出演し、千日劇場では師匠米朝が司会する「お笑いとんち袋」のレギュラーとなったりもしたのです。ここまで落語会で詰め寄る事が出来たのは、桂米朝氏が家族同然に想い、本気の稽古や体を張ってその姿を見せてきたからだと思います。またテレビ番組の収録で吉本興業の花月劇場チェーンや、松竹の角座の舞台にも立ったり、全国的には「ウィークエンダー」での「テレビ三面記事」のレポーターとしての出演をしたりと気づけば全国を舞台にしていました。その後、大阪に拠点を戻すも、彼は様々な賞を受賞してきたのであったのです。

ジュリア・ロバーツさんは実は吃音者だったって知っていましたか?

子どものころは吃音に悩んでいたという記録があります。どうやって治したかはいまなお不明です。

この人はどんな人

両親が共に役者の3番目の子として1967年にアトランタに生まれました。高校を卒業後にニューヨークでオーディションを受ける日々が続きます。1998年に映画デビューをします。翌年の「マグノリアの花たち」でゴールデングローブ賞の助演女優賞を受賞して注目されます。さらに、1990年リチャード・ギアと共演した「プリティ・ウーマン」で当たり役となって映画も大ヒットしてスターの座をつかみました。2001年には「エリン・ブロコビッチ」で主演女優賞を受賞します。2006年にブロードウェイの舞台作品に出演しましたが、評判はあまり芳しくなかったようです。理由は不明ですが、反日という噂がありましたが、2010年8月に初来日してフアンを喜ばせました。

こんな私生活

これまでに多くの男性との交際歴があり、結婚と離婚を繰り返している。2002年に映画カメラマンと結婚し、子供を3人出産しています。「幸せの教室」で共演したトムハンクスとは長年の友人で今も家族ぐるみの付き合いをしています。2009年にインドで撮影された映画「食べて、祈って、恋をして」の時に、ヒンドゥー教に改宗しています。この撮影の際にヒンドゥー教に興味を持ったのではなく、かねてからヒンドゥー教を学んでいたと語っています。信仰の面で厳格さを持つ彼女の真摯さが高く評価されて、アマリカのヒンドゥー教団体「ユニバーサル・ソサエティ・オブ・ヒンドゥーイズム」の指導者であるラジャン・ゼッド氏は彼女に栄誉を与えています。

多くの資産

2001年6月に豪華なハイテク仕様のトレーラー車を日本円で4,200万円で購入したことで話題になりました。このトレーラー車には、3つの寝室と豪華なバスルーム、デラックスなキッチン、衛星放送のアンテナ、自動進路設定システム等が付いているといいます。2005年には、「最も出演料の高い女優ランキング」で、映画1本の出演料が2000万ドルで1位になりました。2007年には、エンターテイメント界で活躍する女優で資産の多いトップ20の中で総資産169円で第8位にランクされました。映画「バレンタインデー」の出演では、わずか6分間の出演で2億7000万円の出演料だったと言います。またイタリアのコーヒーメーカーのコマーシャルでは、台詞なしの45秒で1億3200万円だったと言います。

吃音でも羽仁進さんのように生きる

吃音を隠すことなくありのままの話し方をされていますね。また、日本ではあまり馴染みのない吃音への理解を求める姿勢は共感を呼んでいます。それでは羽仁進さんの吃音人生を見ていきましょう。

羽仁進さんはどんな人なのか

映画に詳しい人であれば、羽仁進さんが映画史上どれだけ重要な人物かがわかるかと思いますが、そうでない人は、パッと顔が浮かんでこない方もいるのではないでしょうか。

羽仁進さんは、ドキュメンタリーの映画監督です。最初の作品が「教室の子供たち」という映画で、子供を未発達なものと捉えるのではなく、子供なりの知性だったり理論だったりがあるということを世の大人に知らしめるような内容でした。1か月ほど、学校に通学する子供を毎日撮影した作品は、のちにブルーリボン賞を受賞しました。

その後、「不良少年」という映画が1961年日本映画ベスト1になりました。この映画はプロの俳優ではなく、実際に非行経験のある少年を集めて撮影され、大きな反響を呼びました。

羽仁進の恋愛

女優の左幸子さんが元妻です。1959年に結婚しましたが、1977年に羽仁さんが左幸子さんの妹額村喜美子さんと浮気したことで、離婚となりました。その後、喜美子さんと再婚しています。娘が羽仁未央さんです。芸術家らしい、波乱万丈な恋愛経験を持っていますが、インタビューなどを見ると、とてもアグレッシブで感情的な人といった印象を受けるので、やはり恋愛も情熱的だったようです。

ドキュメンタリー作家として成功していながらも、様々なことに取り組んでおり、アートフィルムを撮ったりアフリカ取材で30年間動物を撮影したりもしています。映画監督という職を求めているのではなく、その時にやりたいことをやってきたというふうに語っています。恋愛についても好きな人に情熱を傾けたのでしょうか。

羽仁進のインタビューから「幸せとは?」

「大いなる死」という著書も持つ羽仁進さんですが、あるインタビューで幸せとは何かという質問に答えていた内容が印象的でした。彼は、自分が持っている大きな傾向を早く見つけだすことが重要という風に言っています。何が問題だとか、できない理由を挙げるのではなく、自分の素直な気持ちで進んで行くべきだ、と。

この言葉は現代の多くの大人の胸を打つのではないでしょうか。大人になって、家庭を持ち、収入も必要で、となってくると自分のやりたいことなど後回し、やりたいことが何なのかさえわからなくなります。しかし、それでは、本当に幸せとは言えないのかもしれません。

言葉にすれば簡単ですが、羽仁進さんはそれを人生をもって体現している人だと言えるでしょう。離婚については様々な意見もありますが、肩書きや世間体ではなく自分の気持ちに従って生きることを思い出せてくれる数少ない人物です。

サミュエル・L・ジャクソンさんもじつはどもっていた過去を持つ

子どもの頃やはり吃音でからかわれた経験を持っておられ、今でも治っていないそうです。驚くべきはその特徴的な声を活かして声優でも活躍しているというのですからすごいですよね。それでは彼の吃音人生を見ていきましょう。

こんな映画にも出てた!

超有名な俳優サミュエル・L・ジャクソンも、現在67歳(2016年9月現在)。

本当に数々の作品に出演しています。

子供のころに観ていた映画に、実は出ていたという事もしばしば。

たとえば『星の王子 ニューヨークへ行く』に出てたって知ってました?

大人になって、久々に観たときに気が付きました。

『星の王子 ニューヨークへ行く』は、当時の大スターエディー・マーフィーが主演した、コメディー映画です。

サミュエル・L・ジャクソンはハンバーガー屋に入った強盗役という、超脇役で出演。

エディー・マーフィーにこてんぱんにやられてしまいます。

フューリー長官や、紫色のライトセーバーを振り回すメイス・ウィンドゥの印象が強い今では、考えられないやられっぷりです。

80年代の映画を漁ってみたら、もしかするとサミュエル・L・ジャクソンの若かりし頃に出会えるかもしれません。

実はあの人の大ファン

誰もが尊敬する名優サミュエル・L・ジャクソンですが、彼が大ファンだと公言している人を知っていますか?

実はサニー千葉こと、千葉真一です。

日本でも不思議な魅力とカッコいいアクションで熱狂的ファンがいる千葉真一。

実はサミュエル・L・ジャクソンも「サムライ映画」が大好きなのだそうです。

千葉真一に会ったとき、直立不動でサインをおねだりしたという逸話も…。

想像するとちょっとかわいいですね(笑)

『アベンジャーズ』シリーズのフューリー長官を演じる際には、かつて千葉真一が演じたの柳生十兵衛を参考にしていたという話もあります。

プライベートでも2人は仲が良く、家族ぐるみのお付き合いをしているそう。

いつか二人が「サムライ映画」で共演する日もあるかもしれませんね。

最新作はキングコング!?

『ターザン:REBORN』の記憶も新しいサミュエル・L・ジャクソンですが、すでに次の映画の公開が決まっています。

サミュエル・L・ジャクソンの映画最新作は来年2017年公開の『コング: スカル・アイランド』です。

『コング: スカル・アイランド』はキングコングの誕生について描かれた映画だそうで、先日公開された予告編を観る限り、手に汗にぎる内容になっているようです。

しかし、「ターザン」に引き続き「キングコング」とは、なかなか興味深いですね。

詳しい情報はまだ出てきていないので、早く詳細が知りたいところです。

ちなみにサミュエル・L・ジャクソンはキングコング役ではないということは、分かっていますよ(笑)

さらにこの『コング: スカル・アイランド』の「キングコング」は続編でハリウッド版「ゴジラ」と対決することがすでに決まっているそうです。

サミュエル・L・ジャクソンはどのような役で、どういう風にこの怪獣たちに絡んでいくのでしょう。

今後が楽しみです。

どもりがなんだ!井上ひさしさんが吃音を改善した意外な方法

なんと「ひょっこりひょうたん島」の作者です。きっかけは義理のお父さんからの虐待が原因とされています。どもりを独特の表現でおもしろくしている吃音矯正学校の喜劇「日本人のへそ」や自伝的小説「花石物語」はいずれ読んでみたいと思っています。それでは井上ひさしさんの吃音人生を見ていきましょう。

井上ひさしは放送作家で劇作家で小説家

井上ひさし氏は有名な番組「ひょっこりひょうたん島」を山元護久氏と共に手がけた人物です。放送作家として数々の番組を手がけただけでなく、劇作家としても功績を残しています。

例えば「てんぷくトリオ」のコントを作ったり、花子さんや日本人のへそなどの戯曲を書いたりなどといったことをしています。

また劇団の芝居を書いたことをきっかけに小説家としての活動も始めています。「吉里吉里人」という小説では日本SF大賞や星雲賞、「不忠臣蔵」では吉川英治文学賞などを受賞しており、小説の世界でもその名を轟かせています。

井上ひさし氏は放送作家や劇作家、そして小説家の活動すべてにおいて何かしらの賞を受賞している豊かな才能を持った人と言えるのです。

虐待や家庭内暴力をしていた!?

井上ひさし氏は猟奇的なことを好む性格であったようで、幼い頃には猫に火をつけたり猫を高い頃から落としたりなどといったことをしていたようです。特に猫が異常なほど大好きだったみたいです。井上氏自身が過去の動物虐待に関して公に話しています。しかも動物愛護団体を批判するときに暴露しているのです。

また家庭環境もかなり複雑であったようで、井上ひさし氏は奥さんに対して暴力を振るっていたそうです。とはいえ本人に悪気はなく、良い作品を書くために必要なことであると考えていたそうです。奥さんの方も最初は受け入れていたようですが、段々と傲慢な態度に嫌気が差してきて離婚に至ったのです。

三女の石川氏曰く「人格破綻者」だったみたいです。でもだからこそ他の人には書けない作品を作ることが出来たのでしょう。

作品を書くのがかなり遅かった!

井上ひさし氏はかなりの遅筆として有名です。自身でもそのことをよく分かっており、戯曲の際は「「遅筆堂」といった戯号を使うこともよくあったそうです。

それゆえに劇の公演に戯曲の完成が間に合わず、休演せざるを得ないことも何度かあったそうです。中でも有名なのが「パズル事件」と呼ばれるものです。

この事件は戯曲「パズル」を公演までに完成させることができず中止になってしまい、井上ひさし氏が多くの弁償金を支払うことになったというものです。最も有名な上演中止事件ですが、他にも損失額を弁償する支払いはあったようです。

とはいえ井上ひさし氏は上演さえすれば客が入るため、周囲の方々も仕方ないなで済ませるといったことも多かったそうです。締め切りに遅れても仕方ないと思わせる、それほどの才能を持っていたということです。

サマーセット・モームさんの壮絶な吃音人生とは

自伝小説である「人間の絆」で、足の障害をもつ主人公が描かれていますが、これは吃音を持つ自分自身を描いたとされています。実際に幼いころからの吃音をもっており、それがコンプレックスになっていたとのこと。

フランス生まれのイギリスの人気作家

フランスのパリで生まれ、8歳や10歳のときに母親と父親を立て続けに亡くし、それを機にイギリスの叔父の元へと引き取られました。

医師免許を取得できるほどの博識で、処女作の「ランペスのライザ」を書き上げます。ですが好評は得たものの、人気作家にまではなれず、次々と作品を書くものの芳しい評価は得られませんでした。

ですが「ドット夫人」や「スミス」などの戯曲は一定の評価を得ました。その後第一次世界大戦の折、水から志願して前線の病院に勤務、諜報機関で活動しながら、作家としての仕事にも精を出していました。

そして諜報活動休止後に書いた「月と六ペンス」という小説がアメリカでベストセラーになり、それまでに書いた作品も注目され、一躍人気作家の仲間入りを果たすことになったのです。

かなりの旅行好き!

サマーセット・モームは旅行好きで、世界中を巡っています。1905年には「聖母の国」という旅行記を出しているほどです。

アメリカやイタリア、スイス、マレーシア半島など様々な場所に出かけており、気に入ったところには長期滞在することもありました。

晩年になってもフットワークは軽く、長期滞在はあっても生涯一つところに留まることはありませんでした。

さらにモームが滞在したザ・オリエンタル・バンコクというホテルのスイートルームには、モームの名前をモチーフにしたものがあるほどです。他にもシンガポールMRTという場所にはサマセット駅という駅も存在します。

そうした各地での経験が、モームの描く作品にも如実に表れているのです。

モームはゲイだった!

モームは同性愛者としても非常に有名です。とはいえ生涯独身だったわけではなく、結婚して一人娘も設けています。

それもそのはずでモームは同性愛者であることは公言してはいませんでした。ではどうしてそのことが知られるようになったかというと、ある裁判が原因だと言われています。

モームが残した遺書には秘書へ遺産を贈る旨が書かれていました。それも莫大な金額です。なぜ秘書に残すのかと不満を感じた遺族が異議申し立ての裁判を行ったところ、実はその秘書がモームの恋人であることが明らかになったそうです。これを機にモームが書いた作品に、同性愛者であることを裏付ける描写があったとまことしやかに囁かれるようになったのです。

ですが一説であり、当人は同性愛者であることを認めたくなかったから結婚したと甥は話しているそうです。

ルイス・キャロルさんは実は吃音者だったって知っていましたか?

説明の必要がないくらい有名な吃音者。「不思議の国のアリス」の作家です。吃音のほかに耳の障害もあったそうです。「不思議の国のアリス」で有名になった後も吃音を彼を苦しめていたそうです。それではルイス・キャロルの吃音人生を見ていきましょう。

「あの世界的に有名な小説を書いた人」

ルイス・キャロルはイギリスの数学者や写真家など、様々な顔を持っていますが、中でも有名なのは作家としてでしょう。

世界的にも有名な児童文学小説「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の著者でもあるのです。

この作品はキャロルの知人の子供アリス・リデルをモデルにしたと言われています。

その内容はというとメルヘンチックなファンタジーでありながら、どこか狂気に満ちています。また数学者らしく数理論理学を内包しているとも言われています。

さらに英語で書かれた原作では、多くの言葉遊びが用いられています。その後様々な国で翻訳されましたが、一見不可解だったり摩訶不思議だったりとする世界観はそうした言葉遊びを直訳したがゆえのことなのかもしれません。

写真家としてのルイス・キャロル

ルイス・キャロルというのは作家として活動するときに用いたペンネームで、写真家としては本名のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンとして活動していました。

現在残されている写真の多くは少女を撮影したもので、『不思議の国のアリス』のモデルとなったアリス・リデルの写真も多く残っています。

また他にチャールズがモデルとして気に入っていた少女の一人にアレクサンドラ・キッチンがいます。なんとチャールズはアレクサンドラを四歳から十六歳までの期間、複数回に渡って撮り続けたのです。

このようにチャールズの残した写真の大半が少女たちのものであったため、様々な人たちから小児性愛者だと呼ばれてきました。もちろんこれは一説であり、実際のところは分かりません。

ルイス・キャロルの人物像に迫る!

数学者や作家、詩人など様々な顔を持つルイス・キャロルですが、牧師であった父からの影響が強いことは否めません。きっとキャロルの宗教観は幼い頃からの父の教えによって育まれてきたのでしょう。

またキャロルには親しいスケフィントン・ラトウィッジという叔父がいました。彼は弁護士としてロンドンに暮らしていたのですが、新しい物好きとしても有名でした。そんな叔父からキャロルは写真の技術を学ぶことになったと言われています。

そうしていろんな人たちから影響を受けたキャロルはやがて年を重ね、四十代に入った頃には自らを老人と名乗り、写真撮影なども止めてしまいました。この頃から元々気難しかった性格にさらに拍車がかかったと言われています。