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桂文福さんはこうして吃音を治したらしい!

小さなころから吃音だったらしいですが、落語の世界に憧れて入門されました。その後、師匠のすすめもあって吃音やナマリをそのままだした新作落語に取り組んでいます。相撲甚句、河内音頭などが有名ですよね。こうしてみると三遊亭圓歌さんも桂ざこばさんも吃音ですね。落語会には吃音者が多いというのも不思議です。それでは桂文福さんの吃音人生を見ていきましょう。

桂文福さんってどんな人?

1953年(昭和28年)3月31日で早生まれの現在61歳!

和歌山県紀の川市桃山町出身で、本名は田中登さんです。

170cmで103kgとなかなかどっしりした体型のマイペースなB型。

趣味は、カラオケ・鉄道を乗り継いでの1人旅に、昔からのファンである大相撲観戦(元横綱の曙や元大関の小錦と親交が深い)・マンガを描くこと(上方落語協会の協会新聞で四コママンガを連載しています)などとても多趣味です。

県立粉河高校卒業後に大日本印刷大阪工場に就職して1度は社会人になりますが、1年後に脱サラして19歳で三代目・桂小文枝(五代目の桂文枝)に弟子入りします。

現在、(有)文福らくごプロモーションの代表、全国市町村で開催している「ふるさと寄席」の座長、吉本興業の落語プロジェクトに参加するなど意欲的に活動しています!

どんなお弟子さんがいるの?

桂茶がまさん(よしもとクリエイティブ・エージェンシーにも所属し、コシノグランドコレクションのモデルさんも務めています!持ちギャグは‘’や〜らしいわ〜‘’)、桂文鹿さん(落語家さんとしての活動だけでなく、引退されていますがプロボクシング選手でもあり、師匠同様大相撲の大ファンでもあります)、桂まめださん(よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属する芸人さんで、特技は皿回しで、緑色の髪が特徴的です)・桂ぽんぽ娘さん(東京出身ながら、上方で江戸弁落語家として活躍中です)etcなど、才能あふれる若手さん達が弟子入りしています。

廃業してしまいましたが桂ぽんぽこさんや、他にも桂和歌ぽん・桂恩狸さんなど、何となく全員たぬきを連想させる芸名で統一されています。

魅力的なエピソード&受賞歴!

中学生の時は相撲部に所属、高校生の時は美術部&柔道部に所属し、現在多趣味なのも頷けます。

内弟子時代に、桂文枝師匠へのお客様にコーラを出すつもりで麺つゆを出したことがあるそうです。

(何故か麺つゆがコーラの瓶に入っていたため)

(ちなみに、弟子の1人の桂まめださんも天然で有名で、桂文福さんはあまりの天然ぶりにまめださんの親に電話をかけたそうです。)

弟子入りして7年後、28歳の時に「第2回ABC落語漫才新人コンクール」で審査員奨励賞を、翌翌年から2年連続で 「第11回日本放送演芸大賞」ホープ賞を受賞します。

和歌山での活動が評価されて「和歌山県文化奨励賞」「和歌山県桃山町民特別功労賞」「和歌山県桃山町第1回ふるさと文化賞」も受賞されています!

意外!桂ざこばさんもじつは吃音持ちだったらしい!

私はらくごのごで好きになりました。軽妙なトークで人気の落語家さんです。吃音を逆手にとった落語が特徴です。吃音を落語に活かすのは桂文福さんと同じですね。それでは桂ざこばさんの吃音人生を見ていきましょう。

幼い頃から波乱万丈の人生を歩んできた 桂ざこば氏

桂ざこば氏は小学校2年生の時に両親が離婚した上に警察官だった父親に引き取られるも3か月ほどで父親は自殺によって亡くなったのです。

その後、中学校へ進みそこでは学校をサボりながらも落語を見ていたそうです。その頃から3代目桂米朝の芸に惚れ込み、弟子入りを何度も何度も志願したのだが入れてくれなかったそうです。

そして弟子から言われた事は「高校だけでも卒業した方がいい」ということだったそうです。そして高校を志すも、中学時代の担任からは、「お前に行ける高校はないぞ」と言われ、その旨を聞いた米朝氏は入門を許可したのです。

またその入門前に就職を勧められ直前に働いたりと幼い思春期に波乱万丈な経験をしている桂ざこば氏であったのです。

お世話になった師匠との別れ

桂ざこば氏は3代目桂米朝の芸に惚れ込み、弟子入りをしたのです。そして彼は波乱万丈の人生を歩んできた時に、米朝師匠と家族同然の様に落語会を歩んできたのです。

そして落語家で人間国宝とまで言われた、桂米朝氏は89歳にして2015年に他界したのです。

桂米朝氏は2009年から数回に渡り脳梗塞を患っていたのです。

それでも、ひたすら持ってるパワーを持ち続け彼は何度も回復の兆しへ向かったりと戦ったのです。しかし、2014年にまた再度入院から危篤状態となり、2015年に桂米朝氏は他界したのです。

その後、弟子であった、桂ざこば氏はコメントを残したのです。

「こないに上手に、こないにキレイに亡くなるとは…」とここまで師匠と家族同然に過ごした人がこんなに戦い生き、天国へ行く時も素晴らしい終わり方をしたのだと思います。

いつしか華の舞台に

桂ざこば氏は波乱万丈な人生を経験しながらも桂米朝氏のところへ弟子入りしてから、稽古特訓の日々が始まったのです。

そこからいつの日にか、千日劇場やトップホットシアターに出演し、千日劇場では師匠米朝が司会する「お笑いとんち袋」のレギュラーとなったりもしたのです。ここまで落語会で詰め寄る事が出来たのは、桂米朝氏が家族同然に想い、本気の稽古や体を張ってその姿を見せてきたからだと思います。またテレビ番組の収録で吉本興業の花月劇場チェーンや、松竹の角座の舞台にも立ったり、全国的には「ウィークエンダー」での「テレビ三面記事」のレポーターとしての出演をしたりと気づけば全国を舞台にしていました。その後、大阪に拠点を戻すも、彼は様々な賞を受賞してきたのであったのです。

吃音でも羽仁進さんのように生きる

吃音を隠すことなくありのままの話し方をされていますね。また、日本ではあまり馴染みのない吃音への理解を求める姿勢は共感を呼んでいます。それでは羽仁進さんの吃音人生を見ていきましょう。

羽仁進さんはどんな人なのか

映画に詳しい人であれば、羽仁進さんが映画史上どれだけ重要な人物かがわかるかと思いますが、そうでない人は、パッと顔が浮かんでこない方もいるのではないでしょうか。

羽仁進さんは、ドキュメンタリーの映画監督です。最初の作品が「教室の子供たち」という映画で、子供を未発達なものと捉えるのではなく、子供なりの知性だったり理論だったりがあるということを世の大人に知らしめるような内容でした。1か月ほど、学校に通学する子供を毎日撮影した作品は、のちにブルーリボン賞を受賞しました。

その後、「不良少年」という映画が1961年日本映画ベスト1になりました。この映画はプロの俳優ではなく、実際に非行経験のある少年を集めて撮影され、大きな反響を呼びました。

羽仁進の恋愛

女優の左幸子さんが元妻です。1959年に結婚しましたが、1977年に羽仁さんが左幸子さんの妹額村喜美子さんと浮気したことで、離婚となりました。その後、喜美子さんと再婚しています。娘が羽仁未央さんです。芸術家らしい、波乱万丈な恋愛経験を持っていますが、インタビューなどを見ると、とてもアグレッシブで感情的な人といった印象を受けるので、やはり恋愛も情熱的だったようです。

ドキュメンタリー作家として成功していながらも、様々なことに取り組んでおり、アートフィルムを撮ったりアフリカ取材で30年間動物を撮影したりもしています。映画監督という職を求めているのではなく、その時にやりたいことをやってきたというふうに語っています。恋愛についても好きな人に情熱を傾けたのでしょうか。

羽仁進のインタビューから「幸せとは?」

「大いなる死」という著書も持つ羽仁進さんですが、あるインタビューで幸せとは何かという質問に答えていた内容が印象的でした。彼は、自分が持っている大きな傾向を早く見つけだすことが重要という風に言っています。何が問題だとか、できない理由を挙げるのではなく、自分の素直な気持ちで進んで行くべきだ、と。

この言葉は現代の多くの大人の胸を打つのではないでしょうか。大人になって、家庭を持ち、収入も必要で、となってくると自分のやりたいことなど後回し、やりたいことが何なのかさえわからなくなります。しかし、それでは、本当に幸せとは言えないのかもしれません。

言葉にすれば簡単ですが、羽仁進さんはそれを人生をもって体現している人だと言えるでしょう。離婚については様々な意見もありますが、肩書きや世間体ではなく自分の気持ちに従って生きることを思い出せてくれる数少ない人物です。

どもりがなんだ!井上ひさしさんが吃音を改善した意外な方法

なんと「ひょっこりひょうたん島」の作者です。きっかけは義理のお父さんからの虐待が原因とされています。どもりを独特の表現でおもしろくしている吃音矯正学校の喜劇「日本人のへそ」や自伝的小説「花石物語」はいずれ読んでみたいと思っています。それでは井上ひさしさんの吃音人生を見ていきましょう。

井上ひさしは放送作家で劇作家で小説家

井上ひさし氏は有名な番組「ひょっこりひょうたん島」を山元護久氏と共に手がけた人物です。放送作家として数々の番組を手がけただけでなく、劇作家としても功績を残しています。

例えば「てんぷくトリオ」のコントを作ったり、花子さんや日本人のへそなどの戯曲を書いたりなどといったことをしています。

また劇団の芝居を書いたことをきっかけに小説家としての活動も始めています。「吉里吉里人」という小説では日本SF大賞や星雲賞、「不忠臣蔵」では吉川英治文学賞などを受賞しており、小説の世界でもその名を轟かせています。

井上ひさし氏は放送作家や劇作家、そして小説家の活動すべてにおいて何かしらの賞を受賞している豊かな才能を持った人と言えるのです。

虐待や家庭内暴力をしていた!?

井上ひさし氏は猟奇的なことを好む性格であったようで、幼い頃には猫に火をつけたり猫を高い頃から落としたりなどといったことをしていたようです。特に猫が異常なほど大好きだったみたいです。井上氏自身が過去の動物虐待に関して公に話しています。しかも動物愛護団体を批判するときに暴露しているのです。

また家庭環境もかなり複雑であったようで、井上ひさし氏は奥さんに対して暴力を振るっていたそうです。とはいえ本人に悪気はなく、良い作品を書くために必要なことであると考えていたそうです。奥さんの方も最初は受け入れていたようですが、段々と傲慢な態度に嫌気が差してきて離婚に至ったのです。

三女の石川氏曰く「人格破綻者」だったみたいです。でもだからこそ他の人には書けない作品を作ることが出来たのでしょう。

作品を書くのがかなり遅かった!

井上ひさし氏はかなりの遅筆として有名です。自身でもそのことをよく分かっており、戯曲の際は「「遅筆堂」といった戯号を使うこともよくあったそうです。

それゆえに劇の公演に戯曲の完成が間に合わず、休演せざるを得ないことも何度かあったそうです。中でも有名なのが「パズル事件」と呼ばれるものです。

この事件は戯曲「パズル」を公演までに完成させることができず中止になってしまい、井上ひさし氏が多くの弁償金を支払うことになったというものです。最も有名な上演中止事件ですが、他にも損失額を弁償する支払いはあったようです。

とはいえ井上ひさし氏は上演さえすれば客が入るため、周囲の方々も仕方ないなで済ませるといったことも多かったそうです。締め切りに遅れても仕方ないと思わせる、それほどの才能を持っていたということです。

大江健三郎さんもじつはどもっていた過去を持つ

日本で2人目となるノーベル文学賞を受賞された方です。吃音エピソードも語られますが、吃音よりはむしろ温かい人柄を感じさせるエピソードです。それでは大江健三郎さんの吃音人生を見ていきましょう。

デビュー前から才能を発揮!

大江健三郎氏は高校生のときに文芸部に所属し、自ら編集した本に詩や評論などを載せていました。

また大学に入学してからは演劇の脚本や小説、戯曲などを書き始めたました。

こうした活動の中で「火山」という作品が銀杏並木賞を受賞し、全国学生小説コンクールでは「優しい人たち」が佳作、「獣たちの声」は創作戯曲コンクールに当選するなど、デビューする前からその才能を遺憾なく発揮していました。

そして東京大学新聞に「奇妙な仕事」という小説が載ったことがきっかけで、作家としてデビューすることになったのです。この作家デビューをしたときの大江健三郎氏は、まだ大学在学中だったというのですから驚きです。

こうして学生作家となった彼はその後も続々と作品を発表していくのでした。

ノーベル文学賞受賞への道のり

大江健三郎氏は1994年に日本文学史上、二人目のノーベル文学賞を受賞しました。ですがそれまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

1935年愛媛県に生を受けた彼でしたが、1941年には太平洋戦争が始まります。このとき彼はまだ小学生でした。

その後戦争が終わるも1951年高等学校に入学した後、いじめが原因で別の学校へ編入するといったこともありました。

それから2年後の1953年には上京し、予備校へ通うこととなり、その翌年にようやく東京大学教養学部に入学することになるのです。

この大学時代に作家デビューをしますが、一度は芥川賞候補となりながらも落選してしまいます。

ですが彼はここで挫けることなく、その翌年若干23歳にして芥川賞を受賞するのです。

大江健三郎の政治的思想とは?

大江健三郎氏は自らを戦後民主主義者と主張し、日本での天皇制には終始批判的な立場を取ってきました。さらに自身のエッセイや公演においても憲法や核、自衛隊など、日本における様々な問題に対して言及しています。

さらに2003年に起こった本国の自衛隊イラク派遣については、人道的支援までに留めるべきだとし、日本のアメリカ追従の姿勢に対して疑問を投げかけました。

その後も小泉純一郎元首相の靖国神社参拝、竹島や尖閣諸島問題など国や政治について自身の考えを様々な場で述べています。

このように独自の政治的思想を様々なメディアで発表したり、自分の作品内で主張したりといったことを行っているのです。ですが非常にデリケートな問題にメスを入れるため、時折批判されることもあります。

村田喜代子さんの壮絶な吃音人生とは

幼いころから吃音で子供時代は名前が言えなくて大変悩んだそうですね。自分の名前が言えないというのは吃音の代表的な症状の1つです。吃音は今も治ってはいないらしいですが、大人になったらさほど吃音のこと自体が気にならなくなったらしいです。ここらへんはやはり脳科学による吃音治療と通ずるところがありますね。それでは村田喜代子さんの吃音人生を見ていきましょう。

村田喜代子ってどんな人?

1945年4月12日生まれの、現在71歳で、梅光学院大学(山口県下関市にある大学です)文学部の客員教授を務めています。

福岡県北九州市八幡西区に生まれ、現在は福岡県中間市に住んでいます。

(村田さんの旧姓は貴田さん)

村田さんがまだお母さんのお腹にいる頃にご両親が離婚、戸籍上は祖父母の子、ということになっています!

さらに就学時年齢の1年前に入学通知が届き(驚きの市役所のミスだったそうです)、1951年わずか5歳で小学校入学することになります。

中学校卒業後にすぐ鉄工所に就職を決めて、1967年22歳でご結婚、姉妹を授かりました。

村田さんは吃音持ちで、今でも矯正できていません。

ただ悩んだのは幼い頃だけで、社会人になると気にならなくなったそうです。

びっくりの受賞歴!

結婚後10年して執筆した(当時はタイプライターで書いていたそうです)「水中の声」で1977年(当時32歳)に第7回九州芸術祭文学賞最優秀作を受賞したのを皮切りに、40代では1987年「鍋の中」で芥川賞(42歳)、1990年『白い山』で女流文学賞(45歳)、1992年『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞(47歳)を受賞しています。

50代では、1997年『蟹女』で紫式部文学賞(52歳)、1998年『望潮』で川端康成文学賞(53歳)、1999年『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞(54歳)。

60代では、2007年 紫綬褒章(62歳)、2010年『故郷のわが家』で野間文芸賞(65歳)、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞(69歳)。

70代に入った今年も、2016年 『春の叙勲』で旭日小綬章(71歳)と、年齢を重ねても全く衰えることはなく続々と栄誉ある賞を授与されています。

現在、泉鏡花文学賞に加え、ご自身も受賞した紫式部文学賞&川端康成文学賞の選考委員を務めています。

どんな作品があるの?

村田さんの作品は様々ありますが、どのような作品があるのでしょうか?

一部簡単にですが、ご紹介します。

「鍋の中」・・4作品が収められていて、怪しげな魅力が詰まっています。紫綬褒章を受賞され、天才と名高い村田さんですが、1人の少女の心情とその時の情景を緻密に描けるのは村田さんしかできない、という納得の作品です!

「ゆうこじょう」・・こちらも短編集で、熊本から遊郭に売られてきた少女の視点から描いた、遊郭の女性たちの生き様を描いています。主人公イチがとっても魅力的で、女の強さ・弱さを目に浮かぶようです。こういうテーマを扱った作品にしては、かなり明るめのタッチです。

「焼野まで」・・3.11の東日本大震災からわずか数日後に、ご自身が子宮ガンであることが発覚し、放射線治療を受けた村田さんの体験談です。村田さんは原発の存在への疑問を投げかけたかったのではないか、と思わせる作品です。

姜尚中さんは実は吃音者だったって知っていましたか?

学生の頃は在日韓国人2世という生い立ちやどもりで悩み、消極的で引っ込み思案だったらしいです。討論番組によく出演されていますが、まったく吃音者とはわかりませんね。それでは姜尚中さんの吃音人生を見ていきましょう。

日本名「永野鉄男」

姜尚中さんは熊本市で在日韓国人二世としてして生まれました。熊本県立濟々黌高等学校を卒業、早稲田大学卒業後、西ドイツのエアランゲン大学に留学をへて、教職の道を歩み始め、マスコミへの露出を始めるようになります。

そんな姜尚中さんですが、日本名「永野鉄男」を名乗り、早稲田大学在学中に、1972年の韓国訪問以降は姜尚中をなんるようになりました。この生い立ちについてはご本人が「生まれは熊本で本名は永野鉄男です。でも今から38年前、22歳の時に、思うところがあって姜尚中を名乗りました」と語っています。

しかし、そのきっかけが韓国訪問であることまではわかっていますが、実際のトリガーまでは明らかにされていません。

学長の辞任の事実は?

姜尚中さんといえば、自ら上尾の地に根を下ろして学び舎の職務を果たしたいということで就任した聖学院大学の大学長の地位を2014年4月に5年任期で契約していながら、約1年で辞任しました。

この理由について様々な憶測が飛び交いました。そもそも、大学側としても広告塔としての役割を期待しての就任だったのですが、影響力もあり、発言力をもつ姜尚中さんが大学の方針や経営に口出しをするようになり、意見の方向性に相違が出たということがその原因であると考えられます。ご本人はその原因については「諸般の事情」ということでそれ以上はコメントを差し控えているため、前述のようなうわさが飛び交い、おそらく高い確率で事実とされています。

家族については意外に知られていない

姜尚中さんの家族についてはあまりオープンに知られていません。著書執筆中に一人息子がなくなったことが、ご本人から伝えられました。その原因もどうやら心の病による服薬が影響してというところが事実のようです。呼吸困難による永眠という線がもっとも高い確率です。多くの出演番組でもここは本人が語らず、悲しい歴史として刻み込まれているよう。

また、奥さんとも離婚されてるといううわさがありましたが、ご自身の口から今でも出演番組で奥さんのことを語られるくらいですから、まず離婚はないでしょう。ただし、本人は息子さんのこともふくめ、家族を表に出すタイプではなく、これからもあらゆる露出に関しては本人のみとなることは予測されます。

清水宏保さんの意外な吃音治療方法とは

オリンピックの金メダルホルダーも子供の頃は吃音にも悩まされていたようです。今でもTVで見かけると吃音が出ていると思われるところがありますね。それでは清水宏保さんの吃音人生を見ていきましょう。

離婚原因は?!

清水宏保と高垣麗子は2010年3月に結婚しました。

高垣麗子は、当時押切もえや蛯原友里と並んでモデルトップ3といわれていました。

誰もが羨むお似合いのカップルでしたが、なんとわずか1年9ヶ月後の2011年12月に離婚しました。

北海道で選手せいかつを続けていた清水宏保と、東京でモデルを続けていた高垣麗子。ふたりの生活はすれ違いが多かったと言いますが、一番の原因は、残念ながら宏保の度重なる浮気だったとのことです。

週刊誌からは度々スクープされてしまいます。

そして遂に妻である高垣麗子から愛想を尽かされた、というのが実状のようです。

あれほどまでに美しい妻をもっても、浮気をしてしまう清水宏保。

今後、彼に春はやってくるのでしょうか。

実は○○コンなの?!

過去、日本のスケート界に大旋風を巻き起こし、偉業を成し遂げた清水宏保ですが、実は○○コンだったといううわさがあります。

それは、マザコンです。

あれだけの偉業を成すには、もちろんご両親のサポートは想像以上のものであったことでしょう。

今でも、清水宏保が実家に帰ると、とても細やかに世話をしてくれるそうで、旅館のように布団のシーツは糊がきいてパリッとしており、布団に入りやすいように少しわざとめくらせてある、とのこと。ちいさなエピソードからも、お母様の細やかな心配りが感じられます。

そして、普段からお母様は敬語で息子にお話をされるとのことです。

「~ですね。」「~してごらんなさい。」という風にです。

これを、過去には元奥さまにも求めてしまった、ということですから、少しマザコンなのかもしれませんね。

偉業達成はあのおかげ?!

清水宏保といえば、誰もが羨む認める伝説のスピードスケート選手です。

数数のオリンピックに出場し、長野オリンピックでは、日本人で初めての金メダルをとりました。そして、なんと銅メダルも合わせダブル受賞、その他ソルトレイクオリンピックやトリノオリンピックにも出場し、銀メダルもとりました。

その偉業を成す裏にはもちろん血のにじむような努力があったことでしょう。

実際、恋愛など楽しむことは一切なく、女性と交際することのないまま大學卒業を迎えたということです。

そこへのエネルギーを、全てスケートに向けて没頭し、結果につながったのですから、モテたかったと本人は言いますが素晴らしいことですね。

結婚後、スピード離婚してしまった清水宏保ですが、ぜひこちらでも金メダルを目指してほしいですねと

木の実ナナさんもじつはどもっていた過去を持つ

木の実ナナさんは自伝エッセイで吃音を告白しています。どういうことかと言うとマドンナ役で出演した「男はつらいよ」シリーズで「お兄ちゃん」のセリフにつまずき撮影が2日ストップになったとのこと。「お」から始まる言葉が言えなくなるというところが吃音の症状がままでていますね。それでは木の実ナナさんの人生を見ていきましょう。

木の実ナナは結婚してる?!

木の実ナナは、現在まで結婚したという情報や証拠などは挙げられていません。自身も、結婚した事はないと公言しています。そのため、出産したことも無ければ、子供も居ません。

過去に大恋愛をし、結婚を考えた恋人はいたのですが、結婚に至る事はありました。結婚しなかった理由は、父親の反対が原因で、出来なかったと言われています。

当時、女優として活動していた木の実ナナの、得ている収入で、家族を養っていたので、結婚して女優業が疎かになったり、引退することになったら、誰が家族を養っていくのだ、と父親に言われたという話があります。

泣く泣く結婚を諦めた木の実ナナは、その後、現在に至るまで、結婚をせずに女優業に励んでいるのです。

木の実ナナの見た目と性格は?

木の実ナナは、昔から現在まで、見た目の変わらない女性だと言われることが多い女優です。長年保ち続けているプロポーションは、憧れを持たれることも多く、高く評価されています。

木の実ナナの身長は160cm、体重は45キロと公式プロフィールに記載されています。

美しく保たなければいけない女優業だからといえ、70代近くになっても、美しいボディーラインを保ち続けている事は、誰もが出来ることではないといえます。

美しいプロポーションを保ち続けている秘訣は、木の実ナナの性格にあります。女優としての木の実ナナをみた印象は、明るい笑顔が印象的です。しかし、実際は我慢強く、自身にストイックで、周りに気を使える人です。そのため、美しいプロポーションを保ち続けられているのです。

舞台にかける女優魂が凄い!

木の実ナナは、2015年10月に、沖縄で行われた舞台で、公演終了後に骨折してしまうというアクシデントがあり、手術をしました。

同年11月に東京公演が行われた際、出演について様々な意見が飛び交い、代役になるかということも懸念されていましたが、木の実ナナは車椅子で舞台に立ちました。

賞賛される中、木の実ナナは、車椅子でも舞台に立てるように構成の変更をしてくれたスタッフに感謝するといった内容の言葉を言いました。

骨折してしまい、自身の事で悩む中でも、周りのスタッフの気遣いを忘れないあたりも、木の実ナナらしいと言えます。

このようなアクシデントからの舞台公演をした木の実ナナは、素晴らしい女優魂の持ち主だと評価されています。

水森亜土さんはこうして吃音を治したらしい!

ストレスかどうかはわかりませんが、子どものころに左利きを右利きに矯正されたことによって吃音になったとされています。イラストレーターの他にも女優・歌手・画家といった多彩な才能を持つところは吃音者の特徴そのものですね。それでは水森亜土さんの吃音人生を見ていきましょう。

亜土ちゃんの絵で有名な水森亜土さん

若い人にとっては、水森亜土さんの顔はそこまでピンとこないかもしれませんが、「亜土ちゃん」の絵を見れば、この人ね!となる人も多いのではないでしょうか。雑貨屋さんでメモ帳や手帳など様々なグッズを見かけますよね。日本を代表するイラストレーターとして活躍する水森亜土さんですが、なんと1939年生まれ。少し昔テイストが可愛い作品だとは思っていましたが、本当におばあちゃんだったのですね。しかもかなりのご高齢。

歌手、作家、画家、女優など、非常に多彩な方で、ひみつのアッコちゃん」のエンディングや「Dr.スランプ アラレちゃん」の歌も歌っていたそうです。可愛らしい歌声で元気をもらえます。

イラストがこんなに長くに渡って愛されていますが(LINEスタンプもあります)、たくさんの才能がある人だったのですね。

モノマネされちゃう個性的なキャラクター

水森亜土さんは、とっても個性的なキャラクターで、関根勤さんから一時期モノマネをされていました。ボーダーシャツにデニムのつなぎを着ている見た目も特徴的ですし、しゃべり方がかなり独特ですので、モノマネしやすそうです。(笑)

笑っていいとも!に本人と関根さんが同じ格好で出演したことがあり、タモリさんは「本人よりも関根さんの方がわかりやすい(普通はオーバーにやるのに)」と言っており、関根さんも「本人の3割引でやっている」と言って、会場内が笑いに包まれました。それほど強烈なキャラクターであったことがうかがえるエピソードです。

本人は関根さんからモノマネすることを全く嫌がる感じもなく、素敵な世界観というか、そういったことを超越した個性を感じます。

水森亜土さんの絵って実は・・・

水森亜土さんの絵といえば、歌いながら両手でクリアボードに描くキャラクターです。両手で描いた可愛いはカップルが唇を寄せあっているように見えますが、実はキスをしているものはなく、いつも微妙に離れていたりずれたりしています。水森亜土さん自身が実は他のカップルがイチャイチャするのを見ることが好きではないから、そのようにしているとのことです。

水森亜土さんのその独特な世界観は今も変わらないまま、今でもたくさんの絵を生み出しています。二頭身の女の子、ネコだったり、すごくふわっとした空気感の少女。水森さんの話している感じなどを見ていると、このキャラクターたちは売り出すために描いたと言うより、水森亜土さんの心をそのまま描いたように感じられます。