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中坊公平さんは実は吃音者だったって知っていましたか?

結婚式のスピーチをした時に吃音が原因で場をしらけさせ、「弁護士なのに弁がたたない」と言われるという、同じ吃音者として胸が痛くなるようなエピソードがあります。それでは中坊公平さんの吃音人生を見ていきましょう。

中坊公平さんとは

 中坊公平さんは、その昔数々の難事件の解決に挑み、苦しむ人々を救った、弁護士の鏡ともいえる人物です。弁護士といえば、犯罪の被害者を救う立場でありながら、犯罪に被疑者の弁護もするので、いいイメージを持っていない人もいるかもしれませんが、中坊公平さんは、犯罪で苦しむ被害者の立場にたって、弱者を助けるために一生を注いだ人物です。京都大学を卒業後、弁護士となり、数々の難事件に挑み、社会的にも評価されましたが晩年、住宅金融専門会社(住専)の社長となり、組織改革や債務回収などに当たる中で、詐欺行為に当たる不透明な会計処理があったとされ、その責任を取る形で弁護士を廃業し、弁護士業に復帰することなく亡くなっています。

中坊公平さんが手掛けた「森永ヒ素ミルク中毒事件」とは

 「森永ヒ素ミルク中毒事件」とは、1955年(昭和30年)の6月頃から、西日本一帯を中心として多数の中毒患者が出た事件です。この事件は、ヒ素が混入した森永乳業製の粉ミルクを使用して、その製品を飲んでしまった乳幼児が中毒症状にかかってしまい、多数の死者、中毒患者が出てしまったというものです。

 現在では、頻繁に食の安全というものが叫ばれる事がありますが、この事件が日本で初めて食の安全というものが問われた事件だと言われています。中坊幸平さんは、この難解な事件の弁護団長に就任して、被害者の救済などに奔走して、被害者の弁護に奔走し、被害者の立場に立った弁護活動を行い、その弁護活動から、弁護士としても注目されるようになりました。

中坊公平さんが解決した「千日デパート火災」とは

 千日デパート火災(せんにちデパートかさい)とは、1972年(昭和47年)に現在の中央区にあった千日デパートで起きた火災事故のことをいいます。戦後史上に残る多数の死者、負傷者が出た事件で、死者118名、負傷者81名という被害者数は、日本のビル火災の中でも史上最悪の大惨事となったことで知られています。

 この事故で、多数の死者、被害者が出たために、その遺族や被害者は、ビルを経営する会社に対する被害補償を求めて訴訟を起こすこととなりました。火災を起こしたビルは、その後撤去され、同ビル内に入っていたテナントなどが強制退去させられることとなりましたが、デパート再興を願う人たちが、訴訟を起こしその弁護団長に中坊公平さんが担当する事となりました。

三遊亭円歌さんの意外な吃音治療方法とは

もともとは鉄道マンだったらしいのですが、なんと吃音を克服するために落語家になられたとか・・・。こうしてみると小倉智昭さんにしても吃音なのに「あえて話す仕事」を選ぶところがすごいですね。弟子入りした師匠も同じ吃音者だったらしく、この事を自ら「落語界七不思議の一つ」と言っておられるそうです。ちなみに幼馴染であったフリーアナウンサーの小川宏さんの真似をして吃音になられたなんてエピソードもあります。それでは三遊亭圓歌さんの吃音人生を見ていきましょう。眼鏡をかけて高座をつとめるなど今までの落語界の常識を打ち破る事を行い「落語界の異端児」の異名を持つ。

3代目三遊亭円歌とはどんな人か

落語に詳しい人で泣けば、三遊亭円歌(圓歌)の顔はすぐに浮かんでこないかもしれません。

そもそも、初代三遊亭円歌は本名が泉清太郎という人で、1876年生まれ、日露戦争を経て初代円歌を襲名し、52歳で亡くなっています。二代目は本名田中利助といい、モダンで艶っぽい芸風が世に好まれました。74歳で亡くなっています。

そして、三代目が中沢信夫です。一時期は「笑点」の大喜利メンバーだったこともあり、大変人気がありました。もともとは吃音を克服するために落語を始めたという話も衝撃的ですし、円歌襲名後に仏門に入ることなど、数々の面白いエピソードがあります。

また、落語会で初めて黒以外の紋付をきて高座を務めたり、メガネをかけたりと、過去になかったことを色々チャレンジしたのも三代目です。

吃音克服のための落語

三代目三遊亭円歌には吃音がありましたが、それに関するエピソードで衝撃的なものがあります。落語家になれば吃りが治るのではないかと思い落語を志したといいますが、実は二代目も吃音だったそうです。吃るたびに師匠に豆を力一杯投げつけられ、投げられたくなかったら吃るな、と言うそうです。最初は投げつけられた豆の量が1000以上あったのですが、それが段々少なくなっていきました。投げつける師匠の顔を見ると師匠は泣いていたということでした。

たまたま、師匠の所に行ったら、師匠にも吃りがあったとのことで、それは偶然でした。師匠は落語の時には一切吃りませんが、弟子を怒鳴るときなどはひどく吃っていたそうです。

自分のコンプレックスをバネに頑張ることは、そうそう簡単にできることではありません。その苦しみを理解できる師弟だった子その関係性だったのではないでしょうか。

笑いとは何か

今はお笑いブームと言われる時代ですが、三代目三遊亭円歌の考える笑いとはどういったものなのでしょうか。

三代目三遊亭円歌が若手の頃に、誰が寄席で一番笑いをとるかを競ったそうです。その時に、何もしゃべらずに舞台を横切るということをやった人がいて、ものすごくウケたそうです。

当時は粋な客が多かったと円歌は言います。確かに、今の時代にそれをやったら、客は笑うでしょうか。もしかしたら、せっかく寄席を見に来たのに金返せなどと言うかもしれません。

当時の笑いは、面白い話を聞くということだけでなく、今までになかった新しい方法を評価していたようなものだったのかもしれません。今よりももっと芸術性の高い領域に笑いがあったのでしょう。

大江健三郎さんもじつはどもっていた過去を持つ

日本で2人目となるノーベル文学賞を受賞された方です。吃音エピソードも語られますが、吃音よりはむしろ温かい人柄を感じさせるエピソードです。それでは大江健三郎さんの吃音人生を見ていきましょう。

デビュー前から才能を発揮!

大江健三郎氏は高校生のときに文芸部に所属し、自ら編集した本に詩や評論などを載せていました。

また大学に入学してからは演劇の脚本や小説、戯曲などを書き始めたました。

こうした活動の中で「火山」という作品が銀杏並木賞を受賞し、全国学生小説コンクールでは「優しい人たち」が佳作、「獣たちの声」は創作戯曲コンクールに当選するなど、デビューする前からその才能を遺憾なく発揮していました。

そして東京大学新聞に「奇妙な仕事」という小説が載ったことがきっかけで、作家としてデビューすることになったのです。この作家デビューをしたときの大江健三郎氏は、まだ大学在学中だったというのですから驚きです。

こうして学生作家となった彼はその後も続々と作品を発表していくのでした。

ノーベル文学賞受賞への道のり

大江健三郎氏は1994年に日本文学史上、二人目のノーベル文学賞を受賞しました。ですがそれまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

1935年愛媛県に生を受けた彼でしたが、1941年には太平洋戦争が始まります。このとき彼はまだ小学生でした。

その後戦争が終わるも1951年高等学校に入学した後、いじめが原因で別の学校へ編入するといったこともありました。

それから2年後の1953年には上京し、予備校へ通うこととなり、その翌年にようやく東京大学教養学部に入学することになるのです。

この大学時代に作家デビューをしますが、一度は芥川賞候補となりながらも落選してしまいます。

ですが彼はここで挫けることなく、その翌年若干23歳にして芥川賞を受賞するのです。

大江健三郎の政治的思想とは?

大江健三郎氏は自らを戦後民主主義者と主張し、日本での天皇制には終始批判的な立場を取ってきました。さらに自身のエッセイや公演においても憲法や核、自衛隊など、日本における様々な問題に対して言及しています。

さらに2003年に起こった本国の自衛隊イラク派遣については、人道的支援までに留めるべきだとし、日本のアメリカ追従の姿勢に対して疑問を投げかけました。

その後も小泉純一郎元首相の靖国神社参拝、竹島や尖閣諸島問題など国や政治について自身の考えを様々な場で述べています。

このように独自の政治的思想を様々なメディアで発表したり、自分の作品内で主張したりといったことを行っているのです。ですが非常にデリケートな問題にメスを入れるため、時折批判されることもあります。

村田喜代子さんの壮絶な吃音人生とは

幼いころから吃音で子供時代は名前が言えなくて大変悩んだそうですね。自分の名前が言えないというのは吃音の代表的な症状の1つです。吃音は今も治ってはいないらしいですが、大人になったらさほど吃音のこと自体が気にならなくなったらしいです。ここらへんはやはり脳科学による吃音治療と通ずるところがありますね。それでは村田喜代子さんの吃音人生を見ていきましょう。

村田喜代子ってどんな人?

1945年4月12日生まれの、現在71歳で、梅光学院大学(山口県下関市にある大学です)文学部の客員教授を務めています。

福岡県北九州市八幡西区に生まれ、現在は福岡県中間市に住んでいます。

(村田さんの旧姓は貴田さん)

村田さんがまだお母さんのお腹にいる頃にご両親が離婚、戸籍上は祖父母の子、ということになっています!

さらに就学時年齢の1年前に入学通知が届き(驚きの市役所のミスだったそうです)、1951年わずか5歳で小学校入学することになります。

中学校卒業後にすぐ鉄工所に就職を決めて、1967年22歳でご結婚、姉妹を授かりました。

村田さんは吃音持ちで、今でも矯正できていません。

ただ悩んだのは幼い頃だけで、社会人になると気にならなくなったそうです。

びっくりの受賞歴!

結婚後10年して執筆した(当時はタイプライターで書いていたそうです)「水中の声」で1977年(当時32歳)に第7回九州芸術祭文学賞最優秀作を受賞したのを皮切りに、40代では1987年「鍋の中」で芥川賞(42歳)、1990年『白い山』で女流文学賞(45歳)、1992年『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞(47歳)を受賞しています。

50代では、1997年『蟹女』で紫式部文学賞(52歳)、1998年『望潮』で川端康成文学賞(53歳)、1999年『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞(54歳)。

60代では、2007年 紫綬褒章(62歳)、2010年『故郷のわが家』で野間文芸賞(65歳)、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞(69歳)。

70代に入った今年も、2016年 『春の叙勲』で旭日小綬章(71歳)と、年齢を重ねても全く衰えることはなく続々と栄誉ある賞を授与されています。

現在、泉鏡花文学賞に加え、ご自身も受賞した紫式部文学賞&川端康成文学賞の選考委員を務めています。

どんな作品があるの?

村田さんの作品は様々ありますが、どのような作品があるのでしょうか?

一部簡単にですが、ご紹介します。

「鍋の中」・・4作品が収められていて、怪しげな魅力が詰まっています。紫綬褒章を受賞され、天才と名高い村田さんですが、1人の少女の心情とその時の情景を緻密に描けるのは村田さんしかできない、という納得の作品です!

「ゆうこじょう」・・こちらも短編集で、熊本から遊郭に売られてきた少女の視点から描いた、遊郭の女性たちの生き様を描いています。主人公イチがとっても魅力的で、女の強さ・弱さを目に浮かぶようです。こういうテーマを扱った作品にしては、かなり明るめのタッチです。

「焼野まで」・・3.11の東日本大震災からわずか数日後に、ご自身が子宮ガンであることが発覚し、放射線治療を受けた村田さんの体験談です。村田さんは原発の存在への疑問を投げかけたかったのではないか、と思わせる作品です。

姜尚中さんは実は吃音者だったって知っていましたか?

学生の頃は在日韓国人2世という生い立ちやどもりで悩み、消極的で引っ込み思案だったらしいです。討論番組によく出演されていますが、まったく吃音者とはわかりませんね。それでは姜尚中さんの吃音人生を見ていきましょう。

日本名「永野鉄男」

姜尚中さんは熊本市で在日韓国人二世としてして生まれました。熊本県立濟々黌高等学校を卒業、早稲田大学卒業後、西ドイツのエアランゲン大学に留学をへて、教職の道を歩み始め、マスコミへの露出を始めるようになります。

そんな姜尚中さんですが、日本名「永野鉄男」を名乗り、早稲田大学在学中に、1972年の韓国訪問以降は姜尚中をなんるようになりました。この生い立ちについてはご本人が「生まれは熊本で本名は永野鉄男です。でも今から38年前、22歳の時に、思うところがあって姜尚中を名乗りました」と語っています。

しかし、そのきっかけが韓国訪問であることまではわかっていますが、実際のトリガーまでは明らかにされていません。

学長の辞任の事実は?

姜尚中さんといえば、自ら上尾の地に根を下ろして学び舎の職務を果たしたいということで就任した聖学院大学の大学長の地位を2014年4月に5年任期で契約していながら、約1年で辞任しました。

この理由について様々な憶測が飛び交いました。そもそも、大学側としても広告塔としての役割を期待しての就任だったのですが、影響力もあり、発言力をもつ姜尚中さんが大学の方針や経営に口出しをするようになり、意見の方向性に相違が出たということがその原因であると考えられます。ご本人はその原因については「諸般の事情」ということでそれ以上はコメントを差し控えているため、前述のようなうわさが飛び交い、おそらく高い確率で事実とされています。

家族については意外に知られていない

姜尚中さんの家族についてはあまりオープンに知られていません。著書執筆中に一人息子がなくなったことが、ご本人から伝えられました。その原因もどうやら心の病による服薬が影響してというところが事実のようです。呼吸困難による永眠という線がもっとも高い確率です。多くの出演番組でもここは本人が語らず、悲しい歴史として刻み込まれているよう。

また、奥さんとも離婚されてるといううわさがありましたが、ご自身の口から今でも出演番組で奥さんのことを語られるくらいですから、まず離婚はないでしょう。ただし、本人は息子さんのこともふくめ、家族を表に出すタイプではなく、これからもあらゆる露出に関しては本人のみとなることは予測されます。

清水宏保さんの意外な吃音治療方法とは

オリンピックの金メダルホルダーも子供の頃は吃音にも悩まされていたようです。今でもTVで見かけると吃音が出ていると思われるところがありますね。それでは清水宏保さんの吃音人生を見ていきましょう。

離婚原因は?!

清水宏保と高垣麗子は2010年3月に結婚しました。

高垣麗子は、当時押切もえや蛯原友里と並んでモデルトップ3といわれていました。

誰もが羨むお似合いのカップルでしたが、なんとわずか1年9ヶ月後の2011年12月に離婚しました。

北海道で選手せいかつを続けていた清水宏保と、東京でモデルを続けていた高垣麗子。ふたりの生活はすれ違いが多かったと言いますが、一番の原因は、残念ながら宏保の度重なる浮気だったとのことです。

週刊誌からは度々スクープされてしまいます。

そして遂に妻である高垣麗子から愛想を尽かされた、というのが実状のようです。

あれほどまでに美しい妻をもっても、浮気をしてしまう清水宏保。

今後、彼に春はやってくるのでしょうか。

実は○○コンなの?!

過去、日本のスケート界に大旋風を巻き起こし、偉業を成し遂げた清水宏保ですが、実は○○コンだったといううわさがあります。

それは、マザコンです。

あれだけの偉業を成すには、もちろんご両親のサポートは想像以上のものであったことでしょう。

今でも、清水宏保が実家に帰ると、とても細やかに世話をしてくれるそうで、旅館のように布団のシーツは糊がきいてパリッとしており、布団に入りやすいように少しわざとめくらせてある、とのこと。ちいさなエピソードからも、お母様の細やかな心配りが感じられます。

そして、普段からお母様は敬語で息子にお話をされるとのことです。

「~ですね。」「~してごらんなさい。」という風にです。

これを、過去には元奥さまにも求めてしまった、ということですから、少しマザコンなのかもしれませんね。

偉業達成はあのおかげ?!

清水宏保といえば、誰もが羨む認める伝説のスピードスケート選手です。

数数のオリンピックに出場し、長野オリンピックでは、日本人で初めての金メダルをとりました。そして、なんと銅メダルも合わせダブル受賞、その他ソルトレイクオリンピックやトリノオリンピックにも出場し、銀メダルもとりました。

その偉業を成す裏にはもちろん血のにじむような努力があったことでしょう。

実際、恋愛など楽しむことは一切なく、女性と交際することのないまま大學卒業を迎えたということです。

そこへのエネルギーを、全てスケートに向けて没頭し、結果につながったのですから、モテたかったと本人は言いますが素晴らしいことですね。

結婚後、スピード離婚してしまった清水宏保ですが、ぜひこちらでも金メダルを目指してほしいですねと

木の実ナナさんもじつはどもっていた過去を持つ

木の実ナナさんは自伝エッセイで吃音を告白しています。どういうことかと言うとマドンナ役で出演した「男はつらいよ」シリーズで「お兄ちゃん」のセリフにつまずき撮影が2日ストップになったとのこと。「お」から始まる言葉が言えなくなるというところが吃音の症状がままでていますね。それでは木の実ナナさんの人生を見ていきましょう。

木の実ナナは結婚してる?!

木の実ナナは、現在まで結婚したという情報や証拠などは挙げられていません。自身も、結婚した事はないと公言しています。そのため、出産したことも無ければ、子供も居ません。

過去に大恋愛をし、結婚を考えた恋人はいたのですが、結婚に至る事はありました。結婚しなかった理由は、父親の反対が原因で、出来なかったと言われています。

当時、女優として活動していた木の実ナナの、得ている収入で、家族を養っていたので、結婚して女優業が疎かになったり、引退することになったら、誰が家族を養っていくのだ、と父親に言われたという話があります。

泣く泣く結婚を諦めた木の実ナナは、その後、現在に至るまで、結婚をせずに女優業に励んでいるのです。

木の実ナナの見た目と性格は?

木の実ナナは、昔から現在まで、見た目の変わらない女性だと言われることが多い女優です。長年保ち続けているプロポーションは、憧れを持たれることも多く、高く評価されています。

木の実ナナの身長は160cm、体重は45キロと公式プロフィールに記載されています。

美しく保たなければいけない女優業だからといえ、70代近くになっても、美しいボディーラインを保ち続けている事は、誰もが出来ることではないといえます。

美しいプロポーションを保ち続けている秘訣は、木の実ナナの性格にあります。女優としての木の実ナナをみた印象は、明るい笑顔が印象的です。しかし、実際は我慢強く、自身にストイックで、周りに気を使える人です。そのため、美しいプロポーションを保ち続けられているのです。

舞台にかける女優魂が凄い!

木の実ナナは、2015年10月に、沖縄で行われた舞台で、公演終了後に骨折してしまうというアクシデントがあり、手術をしました。

同年11月に東京公演が行われた際、出演について様々な意見が飛び交い、代役になるかということも懸念されていましたが、木の実ナナは車椅子で舞台に立ちました。

賞賛される中、木の実ナナは、車椅子でも舞台に立てるように構成の変更をしてくれたスタッフに感謝するといった内容の言葉を言いました。

骨折してしまい、自身の事で悩む中でも、周りのスタッフの気遣いを忘れないあたりも、木の実ナナらしいと言えます。

このようなアクシデントからの舞台公演をした木の実ナナは、素晴らしい女優魂の持ち主だと評価されています。

水森亜土さんはこうして吃音を治したらしい!

ストレスかどうかはわかりませんが、子どものころに左利きを右利きに矯正されたことによって吃音になったとされています。イラストレーターの他にも女優・歌手・画家といった多彩な才能を持つところは吃音者の特徴そのものですね。それでは水森亜土さんの吃音人生を見ていきましょう。

亜土ちゃんの絵で有名な水森亜土さん

若い人にとっては、水森亜土さんの顔はそこまでピンとこないかもしれませんが、「亜土ちゃん」の絵を見れば、この人ね!となる人も多いのではないでしょうか。雑貨屋さんでメモ帳や手帳など様々なグッズを見かけますよね。日本を代表するイラストレーターとして活躍する水森亜土さんですが、なんと1939年生まれ。少し昔テイストが可愛い作品だとは思っていましたが、本当におばあちゃんだったのですね。しかもかなりのご高齢。

歌手、作家、画家、女優など、非常に多彩な方で、ひみつのアッコちゃん」のエンディングや「Dr.スランプ アラレちゃん」の歌も歌っていたそうです。可愛らしい歌声で元気をもらえます。

イラストがこんなに長くに渡って愛されていますが(LINEスタンプもあります)、たくさんの才能がある人だったのですね。

モノマネされちゃう個性的なキャラクター

水森亜土さんは、とっても個性的なキャラクターで、関根勤さんから一時期モノマネをされていました。ボーダーシャツにデニムのつなぎを着ている見た目も特徴的ですし、しゃべり方がかなり独特ですので、モノマネしやすそうです。(笑)

笑っていいとも!に本人と関根さんが同じ格好で出演したことがあり、タモリさんは「本人よりも関根さんの方がわかりやすい(普通はオーバーにやるのに)」と言っており、関根さんも「本人の3割引でやっている」と言って、会場内が笑いに包まれました。それほど強烈なキャラクターであったことがうかがえるエピソードです。

本人は関根さんからモノマネすることを全く嫌がる感じもなく、素敵な世界観というか、そういったことを超越した個性を感じます。

水森亜土さんの絵って実は・・・

水森亜土さんの絵といえば、歌いながら両手でクリアボードに描くキャラクターです。両手で描いた可愛いはカップルが唇を寄せあっているように見えますが、実はキスをしているものはなく、いつも微妙に離れていたりずれたりしています。水森亜土さん自身が実は他のカップルがイチャイチャするのを見ることが好きではないから、そのようにしているとのことです。

水森亜土さんのその独特な世界観は今も変わらないまま、今でもたくさんの絵を生み出しています。二頭身の女の子、ネコだったり、すごくふわっとした空気感の少女。水森さんの話している感じなどを見ていると、このキャラクターたちは売り出すために描いたと言うより、水森亜土さんの心をそのまま描いたように感じられます。

平野レミさんの壮絶な吃音人生とは

この方はすごい早口で吃音とは驚きです。しかし、元来吃音者は早口の方が多いですし、どもりを隠そうと早口になるのも吃音の特徴です。それでは平野レミさんの人生を見ていきましょう。

平野レミさんの家族って、感性豊かな人ばかり!

料理愛好家の平野レミさん、今は、元気なキャラクターの、明るい料理家で有名です。もともとは、シャンソン歌手という彼女は、数枚のCDもだしているんですよ。御主人の和田誠さんは、エッセイストでもあり、イラストレーターでもあり、映画監督でもあり多才な持ち主です。

 長男は、最近、上野樹里と結婚したことで有名になりましたが、バンド、トライセラトップスのボーカルやギターをたんとうするみゅうじしゃんでもあります。

 次男は、慶応大学出身の優秀な商社マン、広告大手の電通に勤めているやりてです。奥さんは、タレント、モデルでもあった和田明日香さん。料理けんきゅうかのレミさんのもとで修業を重ね、食育インストラクターのしかくもとられたとのこと。最近では、レミさんと一緒に食卓に出される料理が、そのまま本になったそうです。とても仲がいいですよね。レミさんは、幸せ家族ですよね。

平野レミさんの料理番組って、本当に楽しいよね!

平野レミさんは、もともとは、シャンソン歌手としてデビューされました。でも今では、誰もが、明るく、料理番組を、にぎわらせる料理家として認められています。日本を代表する料理家の一人です。平野レミさんのトークはとても早口で機転がきき、バラエティー番組かと一瞬間違えるほど、楽しい番組になっています。

 平野レミさんの料理は、なかなか面白い料理が多いです。視聴者が見ていても、想像もできない料理を展開されます。料理の発想がとてもおもしろく、こんな材料で、こんなやり方でと見ていても不思議な料理や、笑いが出てくるような料理もいっぱいあります。仕事を持っている忙しいお母さんや、子育てで、忙しい主婦にも好評な時短レシピや、奇想天外な料理は、年齢にかかわらず、若者から、中高年まで幅広い年代まで、愛されています。

レミパンって、とても便利だよ!

レミパンって、平野レミさんが、考案された鍋のことを言います。実は、私もレミパン使っています。野菜の素材を生かし、鍋に可変式の蒸気穴があるため、短時間で、素材のうまみを引き出し、おいしい料理ができあがります。レミパンは、フッ素加工されたアルミウム鍋と、ちょっと深いフライパンとあります。私は、どちらも持っているのですが、料理によって使い分けています。特に冬場の寒い時には、活躍します。鍋では、ポトフやシチューなど良く作ります。普通なら、長時間煮込まないといけない料理も、短時間でもうまみが出ておいしい料理にできあがります。深いフライパンでは、野菜炒めなどにもすごくいいです。熱が早く素材にいきわたります。レミパンって、すぐれた調理器具だと思います。お勧めです。

意外!小倉智昭さんもじつは吃音持ちだったらしい!

この方も吃音エピソードで必ず出てくるほど吃音者として有名ですよね。幼少期から吃音に悩み、からかわれていたというのはよくある話ですが、「それを見返してやろう!」とあえてアナウンサーになられたという強者です。私には真似できません。アナウンサーですのでいまは吃音を克服されたかのように見えますが、普段の会話ではどもるようで自ら「吃音キャスター」と言っておられます。それでは小倉智昭さんの吃音人生を見ていきましょう。

小倉智昭さんってどんな人?

小倉智昭さんは、やはり何と言ってもフジテレビ「とくダネ」の印象が強いと思います。フリーアナウンサーであり、タレントとしてラジオパーソナリティとしても活躍しています。アナウンサー試験ではフジテレビは落ちてしまい、現在のテレビ東京のアナウンサとしてスタートしました。独特の視点と、はっきりとした物言いが人気で、現在、「とくダネ」は同一司会者ワイドショーの最多放送世界記録となっています。

フリーに転身してからは、大橋巨泉のオーケープロダクションに誘われ、現在は取締役となっています。

また、自身のおすすめグッズなどを紹介したり、日々の出来事を綴っている「OG-LAND」というブログを書いており、大橋巨泉さんが亡くなった時には、思いを丁寧にアップしていました。

小倉智明さんの実力

小倉智明は軽快なしゃべりのイメージがありますが、実は幼い頃から吃音症があったそうで、それを克服するためにアナウンサー職を志したそうです。

以前から競馬が好きで、アナウンサーとしてデビューしてからは、「競馬中継」の実況アナウンサーとして活躍をしていました。競馬好きの間では大変な人気だったようです。

29歳の時、現在のテレビ東京を退社し、フリーアナウンサーとなりました。大橋巨泉さんに可愛がってもらい、オーケープロダクションに所属しましたが、その頃は家賃や光熱費も払えないほどお金がなく、借金が原因で離婚してしまうほどでした。その後、徐々に仕事が増え、ワイドショーに次々にメイン司会で起用されるようになっていきました。

そして、1999年4月に『情報プレゼンター とくダネ!』がスタートして、今のポジョションを築いていきました。

小倉智昭さんのヅラについて

小倉智昭さんといえば、度々取り上げられるズラ騒動。「週刊文春」ではカツラについて2度も記事になったそうです。2度目は小倉さん本人から、「10年前にも同じ質問したでしょ」と言われてしまうほど。隠しているわけではなく、みんな知っているし、騒ぐことでもない、というのが本人のスタンスのようです。他人のカツラなんでどうでもいいことではあるのですが、なんとなく目がいってしまうという心理もありますね・・・。

1ヶ月に1回、美容院行って髪は切っているそうです。

インターネット上で、「とくダネ」のオープニングの挨拶でお辞儀をしてカツラがとれてしまう動画が流れ、拡散されましたが、実際には加工された動画でした。しかし、その動画の印象が強く残っている人も多いのではないでしょうか。