日本

中坊公平さんは実は吃音者だったって知っていましたか?

結婚式のスピーチをした時に吃音が原因で場をしらけさせ、「弁護士なのに弁がたたない」と言われるという、同じ吃音者として胸が痛くなるようなエピソードがあります。それでは中坊公平さんの吃音人生を見ていきましょう。

中坊公平さんとは

 中坊公平さんは、その昔数々の難事件の解決に挑み、苦しむ人々を救った、弁護士の鏡ともいえる人物です。弁護士といえば、犯罪の被害者を救う立場でありながら、犯罪に被疑者の弁護もするので、いいイメージを持っていない人もいるかもしれませんが、中坊公平さんは、犯罪で苦しむ被害者の立場にたって、弱者を助けるために一生を注いだ人物です。京都大学を卒業後、弁護士となり、数々の難事件に挑み、社会的にも評価されましたが晩年、住宅金融専門会社(住専)の社長となり、組織改革や債務回収などに当たる中で、詐欺行為に当たる不透明な会計処理があったとされ、その責任を取る形で弁護士を廃業し、弁護士業に復帰することなく亡くなっています。

中坊公平さんが手掛けた「森永ヒ素ミルク中毒事件」とは

 「森永ヒ素ミルク中毒事件」とは、1955年(昭和30年)の6月頃から、西日本一帯を中心として多数の中毒患者が出た事件です。この事件は、ヒ素が混入した森永乳業製の粉ミルクを使用して、その製品を飲んでしまった乳幼児が中毒症状にかかってしまい、多数の死者、中毒患者が出てしまったというものです。

 現在では、頻繁に食の安全というものが叫ばれる事がありますが、この事件が日本で初めて食の安全というものが問われた事件だと言われています。中坊幸平さんは、この難解な事件の弁護団長に就任して、被害者の救済などに奔走して、被害者の弁護に奔走し、被害者の立場に立った弁護活動を行い、その弁護活動から、弁護士としても注目されるようになりました。

中坊公平さんが解決した「千日デパート火災」とは

 千日デパート火災(せんにちデパートかさい)とは、1972年(昭和47年)に現在の中央区にあった千日デパートで起きた火災事故のことをいいます。戦後史上に残る多数の死者、負傷者が出た事件で、死者118名、負傷者81名という被害者数は、日本のビル火災の中でも史上最悪の大惨事となったことで知られています。

 この事故で、多数の死者、被害者が出たために、その遺族や被害者は、ビルを経営する会社に対する被害補償を求めて訴訟を起こすこととなりました。火災を起こしたビルは、その後撤去され、同ビル内に入っていたテナントなどが強制退去させられることとなりましたが、デパート再興を願う人たちが、訴訟を起こしその弁護団長に中坊公平さんが担当する事となりました。

三遊亭円歌さんの意外な吃音治療方法とは

もともとは鉄道マンだったらしいのですが、なんと吃音を克服するために落語家になられたとか・・・。こうしてみると小倉智昭さんにしても吃音なのに「あえて話す仕事」を選ぶところがすごいですね。弟子入りした師匠も同じ吃音者だったらしく、この事を自ら「落語界七不思議の一つ」と言っておられるそうです。ちなみに幼馴染であったフリーアナウンサーの小川宏さんの真似をして吃音になられたなんてエピソードもあります。それでは三遊亭圓歌さんの吃音人生を見ていきましょう。眼鏡をかけて高座をつとめるなど今までの落語界の常識を打ち破る事を行い「落語界の異端児」の異名を持つ。

3代目三遊亭円歌とはどんな人か

落語に詳しい人で泣けば、三遊亭円歌(圓歌)の顔はすぐに浮かんでこないかもしれません。

そもそも、初代三遊亭円歌は本名が泉清太郎という人で、1876年生まれ、日露戦争を経て初代円歌を襲名し、52歳で亡くなっています。二代目は本名田中利助といい、モダンで艶っぽい芸風が世に好まれました。74歳で亡くなっています。

そして、三代目が中沢信夫です。一時期は「笑点」の大喜利メンバーだったこともあり、大変人気がありました。もともとは吃音を克服するために落語を始めたという話も衝撃的ですし、円歌襲名後に仏門に入ることなど、数々の面白いエピソードがあります。

また、落語会で初めて黒以外の紋付をきて高座を務めたり、メガネをかけたりと、過去になかったことを色々チャレンジしたのも三代目です。

吃音克服のための落語

三代目三遊亭円歌には吃音がありましたが、それに関するエピソードで衝撃的なものがあります。落語家になれば吃りが治るのではないかと思い落語を志したといいますが、実は二代目も吃音だったそうです。吃るたびに師匠に豆を力一杯投げつけられ、投げられたくなかったら吃るな、と言うそうです。最初は投げつけられた豆の量が1000以上あったのですが、それが段々少なくなっていきました。投げつける師匠の顔を見ると師匠は泣いていたということでした。

たまたま、師匠の所に行ったら、師匠にも吃りがあったとのことで、それは偶然でした。師匠は落語の時には一切吃りませんが、弟子を怒鳴るときなどはひどく吃っていたそうです。

自分のコンプレックスをバネに頑張ることは、そうそう簡単にできることではありません。その苦しみを理解できる師弟だった子その関係性だったのではないでしょうか。

笑いとは何か

今はお笑いブームと言われる時代ですが、三代目三遊亭円歌の考える笑いとはどういったものなのでしょうか。

三代目三遊亭円歌が若手の頃に、誰が寄席で一番笑いをとるかを競ったそうです。その時に、何もしゃべらずに舞台を横切るということをやった人がいて、ものすごくウケたそうです。

当時は粋な客が多かったと円歌は言います。確かに、今の時代にそれをやったら、客は笑うでしょうか。もしかしたら、せっかく寄席を見に来たのに金返せなどと言うかもしれません。

当時の笑いは、面白い話を聞くということだけでなく、今までになかった新しい方法を評価していたようなものだったのかもしれません。今よりももっと芸術性の高い領域に笑いがあったのでしょう。

大江健三郎さんもじつはどもっていた過去を持つ

日本で2人目となるノーベル文学賞を受賞された方です。吃音エピソードも語られますが、吃音よりはむしろ温かい人柄を感じさせるエピソードです。それでは大江健三郎さんの吃音人生を見ていきましょう。

デビュー前から才能を発揮!

大江健三郎氏は高校生のときに文芸部に所属し、自ら編集した本に詩や評論などを載せていました。

また大学に入学してからは演劇の脚本や小説、戯曲などを書き始めたました。

こうした活動の中で「火山」という作品が銀杏並木賞を受賞し、全国学生小説コンクールでは「優しい人たち」が佳作、「獣たちの声」は創作戯曲コンクールに当選するなど、デビューする前からその才能を遺憾なく発揮していました。

そして東京大学新聞に「奇妙な仕事」という小説が載ったことがきっかけで、作家としてデビューすることになったのです。この作家デビューをしたときの大江健三郎氏は、まだ大学在学中だったというのですから驚きです。

こうして学生作家となった彼はその後も続々と作品を発表していくのでした。

ノーベル文学賞受賞への道のり

大江健三郎氏は1994年に日本文学史上、二人目のノーベル文学賞を受賞しました。ですがそれまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

1935年愛媛県に生を受けた彼でしたが、1941年には太平洋戦争が始まります。このとき彼はまだ小学生でした。

その後戦争が終わるも1951年高等学校に入学した後、いじめが原因で別の学校へ編入するといったこともありました。

それから2年後の1953年には上京し、予備校へ通うこととなり、その翌年にようやく東京大学教養学部に入学することになるのです。

この大学時代に作家デビューをしますが、一度は芥川賞候補となりながらも落選してしまいます。

ですが彼はここで挫けることなく、その翌年若干23歳にして芥川賞を受賞するのです。

大江健三郎の政治的思想とは?

大江健三郎氏は自らを戦後民主主義者と主張し、日本での天皇制には終始批判的な立場を取ってきました。さらに自身のエッセイや公演においても憲法や核、自衛隊など、日本における様々な問題に対して言及しています。

さらに2003年に起こった本国の自衛隊イラク派遣については、人道的支援までに留めるべきだとし、日本のアメリカ追従の姿勢に対して疑問を投げかけました。

その後も小泉純一郎元首相の靖国神社参拝、竹島や尖閣諸島問題など国や政治について自身の考えを様々な場で述べています。

このように独自の政治的思想を様々なメディアで発表したり、自分の作品内で主張したりといったことを行っているのです。ですが非常にデリケートな問題にメスを入れるため、時折批判されることもあります。

村田喜代子さんの壮絶な吃音人生とは

幼いころから吃音で子供時代は名前が言えなくて大変悩んだそうですね。自分の名前が言えないというのは吃音の代表的な症状の1つです。吃音は今も治ってはいないらしいですが、大人になったらさほど吃音のこと自体が気にならなくなったらしいです。ここらへんはやはり脳科学による吃音治療と通ずるところがありますね。それでは村田喜代子さんの吃音人生を見ていきましょう。

村田喜代子ってどんな人?

1945年4月12日生まれの、現在71歳で、梅光学院大学(山口県下関市にある大学です)文学部の客員教授を務めています。

福岡県北九州市八幡西区に生まれ、現在は福岡県中間市に住んでいます。

(村田さんの旧姓は貴田さん)

村田さんがまだお母さんのお腹にいる頃にご両親が離婚、戸籍上は祖父母の子、ということになっています!

さらに就学時年齢の1年前に入学通知が届き(驚きの市役所のミスだったそうです)、1951年わずか5歳で小学校入学することになります。

中学校卒業後にすぐ鉄工所に就職を決めて、1967年22歳でご結婚、姉妹を授かりました。

村田さんは吃音持ちで、今でも矯正できていません。

ただ悩んだのは幼い頃だけで、社会人になると気にならなくなったそうです。

びっくりの受賞歴!

結婚後10年して執筆した(当時はタイプライターで書いていたそうです)「水中の声」で1977年(当時32歳)に第7回九州芸術祭文学賞最優秀作を受賞したのを皮切りに、40代では1987年「鍋の中」で芥川賞(42歳)、1990年『白い山』で女流文学賞(45歳)、1992年『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞(47歳)を受賞しています。

50代では、1997年『蟹女』で紫式部文学賞(52歳)、1998年『望潮』で川端康成文学賞(53歳)、1999年『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞(54歳)。

60代では、2007年 紫綬褒章(62歳)、2010年『故郷のわが家』で野間文芸賞(65歳)、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞(69歳)。

70代に入った今年も、2016年 『春の叙勲』で旭日小綬章(71歳)と、年齢を重ねても全く衰えることはなく続々と栄誉ある賞を授与されています。

現在、泉鏡花文学賞に加え、ご自身も受賞した紫式部文学賞&川端康成文学賞の選考委員を務めています。

どんな作品があるの?

村田さんの作品は様々ありますが、どのような作品があるのでしょうか?

一部簡単にですが、ご紹介します。

「鍋の中」・・4作品が収められていて、怪しげな魅力が詰まっています。紫綬褒章を受賞され、天才と名高い村田さんですが、1人の少女の心情とその時の情景を緻密に描けるのは村田さんしかできない、という納得の作品です!

「ゆうこじょう」・・こちらも短編集で、熊本から遊郭に売られてきた少女の視点から描いた、遊郭の女性たちの生き様を描いています。主人公イチがとっても魅力的で、女の強さ・弱さを目に浮かぶようです。こういうテーマを扱った作品にしては、かなり明るめのタッチです。

「焼野まで」・・3.11の東日本大震災からわずか数日後に、ご自身が子宮ガンであることが発覚し、放射線治療を受けた村田さんの体験談です。村田さんは原発の存在への疑問を投げかけたかったのではないか、と思わせる作品です。