3代目三遊亭円歌とはどんな人か
落語に詳しい人で泣けば、三遊亭円歌(圓歌)の顔はすぐに浮かんでこないかもしれません。
そもそも、初代三遊亭円歌は本名が泉清太郎という人で、1876年生まれ、日露戦争を経て初代円歌を襲名し、52歳で亡くなっています。二代目は本名田中利助といい、モダンで艶っぽい芸風が世に好まれました。74歳で亡くなっています。
そして、三代目が中沢信夫です。一時期は「笑点」の大喜利メンバーだったこともあり、大変人気がありました。もともとは吃音を克服するために落語を始めたという話も衝撃的ですし、円歌襲名後に仏門に入ることなど、数々の面白いエピソードがあります。
また、落語会で初めて黒以外の紋付をきて高座を務めたり、メガネをかけたりと、過去になかったことを色々チャレンジしたのも三代目です。
吃音克服のための落語
三代目三遊亭円歌には吃音がありましたが、それに関するエピソードで衝撃的なものがあります。落語家になれば吃りが治るのではないかと思い落語を志したといいますが、実は二代目も吃音だったそうです。吃るたびに師匠に豆を力一杯投げつけられ、投げられたくなかったら吃るな、と言うそうです。最初は投げつけられた豆の量が1000以上あったのですが、それが段々少なくなっていきました。投げつける師匠の顔を見ると師匠は泣いていたということでした。
たまたま、師匠の所に行ったら、師匠にも吃りがあったとのことで、それは偶然でした。師匠は落語の時には一切吃りませんが、弟子を怒鳴るときなどはひどく吃っていたそうです。
自分のコンプレックスをバネに頑張ることは、そうそう簡単にできることではありません。その苦しみを理解できる師弟だった子その関係性だったのではないでしょうか。
笑いとは何か
今はお笑いブームと言われる時代ですが、三代目三遊亭円歌の考える笑いとはどういったものなのでしょうか。
三代目三遊亭円歌が若手の頃に、誰が寄席で一番笑いをとるかを競ったそうです。その時に、何もしゃべらずに舞台を横切るということをやった人がいて、ものすごくウケたそうです。
当時は粋な客が多かったと円歌は言います。確かに、今の時代にそれをやったら、客は笑うでしょうか。もしかしたら、せっかく寄席を見に来たのに金返せなどと言うかもしれません。
当時の笑いは、面白い話を聞くということだけでなく、今までになかった新しい方法を評価していたようなものだったのかもしれません。今よりももっと芸術性の高い領域に笑いがあったのでしょう。