意外!ウィンストン・チャーチルさんもじつは吃音持ちだったらしい!

イギリスの首相です。第二次世界大戦の勝利に導いたとして有名な人物。雄弁家として知られているが、過去に吃音を含めた言語障害に悩まされていた過去を持つ。最後は自分で乗り切ったと告白している。ちなみにイギリスでは吃音はジェントルマンの証とされていたこともあるというから驚きですよね。理由は吃音者は繊細で共感力、想像力があったことが要因のようです。

戦車を生み出した張本人!

戦車は兵器として有名です。実は戦車のアイデアを考えたのはチャーチルなのです。

第一次世界大戦のときに、農業用トラクターに機関銃と防弾鋼板を取り付ければ、相手の包囲網を突破できるのではないかと提案しました。これが今なお使われている戦車の核となったアイデアなのです。

とはいえ現在の戦車とチャーチルが考えた戦車には違いがあります。というのも初めて戦車が投入されて以降、イギリス以外の国もこれは使えると開発を始めたからです。各国で独自の進化を遂げた戦車は誕生当時とは異なっているのです。

とはいえその根本となるアイデアを生み出したのがチャーチルであることに変わりはありません。こういった兵器を生み出してしまったことと、戦争時に活躍した政治家であることから「戦争屋」とも呼ばれているのです。

プロにもなれるほど画家の才能!

ウィンストン・チャーチルは絵の才能に非常に長けていました。40歳と遅くから絵を描き始めたにも関わらず、500を超える作品を生み出しているのです。

1925年には名前を隠して投稿した作品が金賞を受賞しており、当時はアマチュア画家にしてはうますぎると賞賛されたほどです。

後に描いたのがチャーチルであると画壇にも知られることになるのですが、そのときに歓迎を受けたことをきっかけに、アマチュア画家という一面を政治にも用いるようになったそうです。

とはいえチャーチルは絵を心の安らぎの一環として愛しており、奥さんはとある作家に絵がなければとっくに心臓病で亡くなっていたかもしれないと語ったそうです。

このようにチャーチルにとって絵はなくてはならない存在だったのです。

実はノーベル文学賞を受賞している!

ウィンストン・チャーチルは回顧録の『第二次世界大戦』という作品で、ノーベル文学賞を受賞しています。しかも同じ年の文学賞の候補にかの有名な作家ヘミングウェイがいたそうです。

若い頃には新聞社の特派員として働いたことがあり、多くの記事を書いています。記事を書くためにも多くの書物を読み漁っていて、その経験が後にノーベル文学賞を受賞できるほどの文章力を獲得することに繋がったのでしょう。

政治家になった後もチャーチルは実に多くの本を出版しています。人々の心を捉える優れた言語センスを持っていたと言われており、演説では多くの人をあっと驚かせました。その力が文章にも表れているのです。

戦争の経験を持っていることも、後世にまで残る名著を残すことにも繋がったと言えるでしょう。

マリリン・モンローさんの意外な吃音治療方法とは

今なお世界で愛される彼女も吃音者でした。両親の離婚など壮絶な生い立ちにより吃音になったのではないかと見られています。それでは彼女の吃音人生を見ていきましょう。

名前の秘密

1926年6月1日、アメリカ・ロサンゼルスで片親のもとに生まれたマリリン・モンロー。その時の本名はノーマ・ジーン・モーテンソン、しかし程なく母親によって姓が変更されノーマ・ジーン・ベイカーとなっています。

ノーマというファーストネームは、映画好きだった母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジから、ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウからとられたと言います。

のちに女優の道に進み、アメリカのセックス・シンボルとなったマリリン・モンローにとって、その事は偶然以上の、なにか運命のようなものを感じずにはいられません。

孤独を感じながら愛に生きた彼女の生涯。その残酷な結末も、神によってあらかじめ決められたものだったのでしょうか?

愛に生きた彼女の男性遍歴

「私がこの世で何をおいても求めているものは、愛し愛されること」という言葉を残しているマリリン・モンロー。

半年で高校を中退したモンローは、母の友人のすすめで16歳のときに最初の結婚をします。お相手は、ロッキード航空機製造会社で整備工として働いていたジム・ドハティ。

一説には15才の時に初めての出産をしているそうですが、その子は里子にだされ、そんな事もあってか半ば無理やりに結婚をさせられたと言います。

しかし彼女はその後15回も中絶手術をしていて、子供を生めない体になってしまいました。

トップスターとなったモンローは、1954年にニューヨーク・ヤンキースのスター選手ジョー・ディマジオと結婚します。二人の結婚生活は幸せいっぱいに思われましたが、そう長続きはせず9ヶ月での離婚となってしまいました。

その後、1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚しています。

謎に包まれたJFK、そしてモンローの死

1961年にはアーサー・ミラーとも別れる事になりますが、それ以前からアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディとの関係が取りだたされています。二人の仲はマフィアと関係の深いと言われているフランク・シナトラが取り持ったと言われています。

J・F・ケネディの1962年の45才のバースデーパーティーには、艶かしいドレス姿で「ハッピーバースデイ・ミスター・プレジデント」と歌い、ケネディに「いつ引退しても悔いはない」と言わしめましたが、実はこの時すでに二人の関係は終焉を迎えていたようです。

ケネディはその後暗殺される事となりますが、その謎は未だに解明されていません。

同様にマリリン・モンローの自殺も、多くの謎に包まれています。

アメリカの国民に愛された二人の死。

「本当の恋人は、宙を見ているだけでゾクゾクさせてくれる」とマリリンは言っていますが、二人は今”ソラ”の上で幸せな生活を送っているのでしょうか?

ボブ・ラブさんはこうして吃音を治したらしい!

NBAのスーパースターです。現役時に活躍したシカゴ・ブルズの背番号「10」はいまなお永久欠番となっています。そんな彼も吃音であったため、引退後7年間も定職に就けずにいたそう。言語療法士のもとで改善リハビリを行い吃音を克服したと言われています。それではボブラブの吃音人生を見ていきましょう。

当初は一プレイヤーに過ぎなかった?!

ボブ・ラブはNBAで活躍したプロバスケ選手です。ですがNBAに入った当初は大活躍の選手ではなく、多くいる選手の一人に過ぎなかったのです。

しかしシカゴ・ブルズに移籍したこととヘッドコーチのディック・モッタの指導を受けたことがきっかけで、徐々にその才能が開花し始めるのです。1969-70シーズンにおいて、21.0得点8.7リバウンドの好成績を残し、チームのエーススコアラーとして名を馳せることになります。

その後もラブは1970-71シーズンで好成績を記録し、オールスターに初めて選ばれたのです。

当初は評価が低かったラブでしたが、ディック・モッタというヘッドコーチと出会ったからこそ、NBAでトッププレイヤーとして名を馳せることができたというわけです。

引退直後に不幸一直線?!

ラブは引退後、故障した背中の容態が悪化して、医者から歩けなくなるかもしれないと診断されました。そのときに妻から離婚を申し渡され一人になってしまいます。

手術とリハビリのおかげで歩行困難になることはありませんでしたが、吃音症ゆえになかなか仕事が見つかりませんでした。仕事に就けなかった7年間の間に貯めた財産も底をついてしまいます。

そんな不幸の真っ只中にいたラブでしたが、チェーンデパートの「ノードストローム」に給仕したことがきっかけで人生が上向き始めます。

ノードストロームのオーナーが真面目なラブの働きぶりに感心し、吃音症のラブのために言語療法士を紹介しました。その言語療法士の治療のおかげで吃音症の克服に成功し、現在は全米屈指のスピーチをする人物として知られています。

ブルズで成し遂げた偉業!

ボブ・ラブはシカゴ・ブルズの歴史を大きく変えた選手です。ラブ加入後の1974-75シーズンで、シカゴ・ブルズは初の地区優勝を果たします。そして強豪チームとなったシカゴ・ブルズの黄金期を、攻守の両面からラブは支えたのです。

また現役時代、ラブは通算で12623得点挙げています。この記録は引退時点では歴代1位であり、2014年においては歴代3位の記録となっています。

ラブが着けていた10番は今では永久欠番となっています。ですが永久欠番が決まった当時、すでにアームストロング選手が10番を身につけていました。ですのでアームストロング選手は許可を取って、10番のままプレイすることにしたそうです。

ラブ選手がいなければ、シカゴ・ブルズも有名にはならず、多くの名選手も生まれなかったかもしれません。バスケ界に与えた影響は大きいと言えます。

意外!ブルース・ウィリスさんもじつは吃音持ちだったらしい!

ブルース・ウィリスは高校時代に吃音に悩まされていたらしいのですが、ステージ上だとどもらなかったらしく、演劇部に所属。その後、生徒会長も努めるほどまで治ったそうです。なんか秋野暢子さんみたいなエピソードですね。その後は「ダイハード」シリーズや「アルマゲドン」などが世界的大ヒットとなったのは周知の事実です。それでは彼の吃音人生を見ていきましょう。

この人の生い立ち

ブルース・ウィリスは1955年、3月19日に西ドイツのイーダー、オーバーシュタインで誕生しました。

父親は、アメリカの兵士でデイビッド・ウィリスで

母親は、マレーネ・Kという人物でドイツ人でした。

1957年、父のデイビッドが軍隊を除隊して家族を連れアメリカのニュージャージー州カーニーズポイント郷

へと移り住みます。

子供の頃ブルースは、少し内気な少年だったといわれていますが彼のテレビや映画でセリフを喋っている姿を見るととても想像できませんね。

そして、彼は地元高校を卒業後、警備員として働いたり私立探偵としてもはたらいていたそうです。

こうして色々な仕事をしていた彼ですが、俳優になることを決意し大きく人生の舵をきったのです。

彼の代表作品

ブルース・ウィリスはこれまでに数多くの映画やテレビに出演してきました。

彼が、私立探偵業を辞めて俳優を目指しはじめた頃の作品が「こちらブルームーン探偵社」という

作品でした。この作品は第5シリーズまで続き彼はコメディ役者として活躍します。

そして、1988年には、皆さんご存知の代表作「ダイハード」に出演します。

この映画は、世界的に大ヒットして、全世界で1億4千万ドル以上の興行収入を得ます。

彼はこの映画でニューヨーク市警の部長刑事ジョン・マクレーンを演じます。

彼は、ほとんどスタント無しでジョン・マクレーンを演じます。

ピンチの場面でもひょうひょうとした態度で敵と戦うマクレーン刑事にはすごく引き込まれてしまいますね。

彼の生活、家族構成は?

彼は、映画「張り込み」のプレミアム試写会にて女優であるデミ・ムーアと出会います。

二人は1987年11月21日にめでたく結婚し、2000年10月18日までにルーマー・ウィリス、

スカウト・ラルー・ウィリス、タルーラ・ベル・ウィリスの3人の娘に恵まれます。

ですが、のちにブルースとデミは離婚することになります。

夫婦というのは大変ですね。

そして、離婚後の2009年3月21日にブルースはエマ・ヘミングと再婚を果たします。

一方のデミ・ムーアもアシュトン・カッチャーと再婚していますね。

さらに、すごいことが二人ともお互いの結婚式にお互いを招待しているということが日本ではあまり

考えられませんね。

しかし、ブルースの結婚式は公式なものではないらしく後日ビバリーヒルズで正式に結婚式をあげたそうです。

吃音でもタイガー・ウッズさんのように生きる

世界的に有名な彼も吃音者。タイガー・ウッズ選手も子どもの頃からどもりがあったようですが、なんと飼い犬に話しかけ、ゴルフに集中する事で徐々に吃音を克服したとのこと。これを見る限りだと直接吃音治療の効果があるとも思えない方法であるため、脳科学に基づくM.R.Mのような「吃音であることを忘れる」ということを実践したのではないかと思われます。それでは彼の吃音人生を見ていきましょう。

すごかったのは子供のころから

今は腰のけがで苦しむタイガーウッズ。幼いころからその天才ぶりはうごかったというエピソードはありますが具体的にはどんなものだったのか。

実は2歳でゴルフクラブを握り、4歳になると南カリフォルニア州の10歳以下の9ホールの試合でなんと10歳児親ぶってしまったのです。さらに8歳になると70代のスコアをたたき出すようになったわけです。13歳になれば、全国規模のトーナメントに出場してしまうわけです。

実際には生後9か月で父親であるアールウッズの手ほどきでゴルフを始めたといわれています。ちなみに父親はグリーンベレーの退役軍人という職歴です。これは意外に知られていません。ゴルフに関係していたわけではないのです。

タイガーウッズよりも話題になったキャディ

かつて、タイガーウッズのキャディを務め、数々の勝利を挙げてきたスティーブウィリアムス(今はアダムスコットのキャディを務めています)がタイガーウッズの暴露本を出版しました。この内容がいかにもダークで様々な憶測を呼んでいます。タイガーウッズと過ごした13年間でお互いの信頼関係どころかタイガーウッズから奴隷のように扱われたという表現をしています。この内容に対する世論の反応は明らかにタイガーウッズに同調する声が多く、スティーブウイリアムスの批判の声のほうが明らかに大きくなっています。タイガーウッズがある程度の激情を持っていることはテレビからも見て取れるところ、そして天才ゆえの動きということが見えているのかもしれません。

40歳でもこれから活躍できるか

あのタイガーウッズもとうとう、40歳。最近はツアーにも顔を出さず、腰の治療に専念している状態ですが、ある汽車の話では2歳のころからゴルフクラブを振り続け、複数回に及ぶ腰の手術のおかげで、歩くさまも小幅でまるで若かりし頃の悠然とした姿はかんじられないとうわさされています。復帰に向けての道筋どころか、歩く姿は70歳と揶揄されているほど。こんな米国の記者の記事が出るくらい、タイガーウッズの体調は思わしく内容です。正直、今のアメリカーツアーで40歳といってもまだまだバリバリ減益といっても過言ではありません。同年代のフィルミケルソンといった過去のライバルたちもまだまだ頑張っているので何とか、復帰してもらいたいのがファンの本音。

桂文福さんはこうして吃音を治したらしい!

小さなころから吃音だったらしいですが、落語の世界に憧れて入門されました。その後、師匠のすすめもあって吃音やナマリをそのままだした新作落語に取り組んでいます。相撲甚句、河内音頭などが有名ですよね。こうしてみると三遊亭圓歌さんも桂ざこばさんも吃音ですね。落語会には吃音者が多いというのも不思議です。それでは桂文福さんの吃音人生を見ていきましょう。

桂文福さんってどんな人?

1953年(昭和28年)3月31日で早生まれの現在61歳!

和歌山県紀の川市桃山町出身で、本名は田中登さんです。

170cmで103kgとなかなかどっしりした体型のマイペースなB型。

趣味は、カラオケ・鉄道を乗り継いでの1人旅に、昔からのファンである大相撲観戦(元横綱の曙や元大関の小錦と親交が深い)・マンガを描くこと(上方落語協会の協会新聞で四コママンガを連載しています)などとても多趣味です。

県立粉河高校卒業後に大日本印刷大阪工場に就職して1度は社会人になりますが、1年後に脱サラして19歳で三代目・桂小文枝(五代目の桂文枝)に弟子入りします。

現在、(有)文福らくごプロモーションの代表、全国市町村で開催している「ふるさと寄席」の座長、吉本興業の落語プロジェクトに参加するなど意欲的に活動しています!

どんなお弟子さんがいるの?

桂茶がまさん(よしもとクリエイティブ・エージェンシーにも所属し、コシノグランドコレクションのモデルさんも務めています!持ちギャグは‘’や〜らしいわ〜‘’)、桂文鹿さん(落語家さんとしての活動だけでなく、引退されていますがプロボクシング選手でもあり、師匠同様大相撲の大ファンでもあります)、桂まめださん(よしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属する芸人さんで、特技は皿回しで、緑色の髪が特徴的です)・桂ぽんぽ娘さん(東京出身ながら、上方で江戸弁落語家として活躍中です)etcなど、才能あふれる若手さん達が弟子入りしています。

廃業してしまいましたが桂ぽんぽこさんや、他にも桂和歌ぽん・桂恩狸さんなど、何となく全員たぬきを連想させる芸名で統一されています。

魅力的なエピソード&受賞歴!

中学生の時は相撲部に所属、高校生の時は美術部&柔道部に所属し、現在多趣味なのも頷けます。

内弟子時代に、桂文枝師匠へのお客様にコーラを出すつもりで麺つゆを出したことがあるそうです。

(何故か麺つゆがコーラの瓶に入っていたため)

(ちなみに、弟子の1人の桂まめださんも天然で有名で、桂文福さんはあまりの天然ぶりにまめださんの親に電話をかけたそうです。)

弟子入りして7年後、28歳の時に「第2回ABC落語漫才新人コンクール」で審査員奨励賞を、翌翌年から2年連続で 「第11回日本放送演芸大賞」ホープ賞を受賞します。

和歌山での活動が評価されて「和歌山県文化奨励賞」「和歌山県桃山町民特別功労賞」「和歌山県桃山町第1回ふるさと文化賞」も受賞されています!

どもりがなんだ!スキャットマン・ジョンさんが吃音を改善した意外な方法

はじめて彼が私と同じ吃音者であると聞いたときはびっくりしました。吃音を逆手にとり、早口で歌う「テクノスキャット」は大ヒットしました。あの「ぴーぱっぱぱらっぽぅ、ぱらぱらぱらぱらぴーぱっぱぱらっぽぅ」というあれです。ちなみに「スキャットマン基金」とは吃音者支援の団体でいかに吃音に注力していたかがわかります。

プリンのCMでお馴染みの

スキャットマン・ジョンという名前だけを聞いてもピンとこない人が多いかもしれませんが、90年代にプリンのCMで「プッチンパポペ~♪エビバディプリンプリン♪」というCMソングを歌っていたおじさんと言われれば、20代以上の年代の人は覚えがあるはずです。

白のセットアップに白のハットを被って口ひげを生やしたあのおじさんがスキャットマン・ジョンです。

彼の曲はスキャットという独特の技法を用いた歌唱法が特徴で、「ドゥビドゥバ」や「シャバダバ」のように自らの声をまるで楽器の音色のように操ることで、一つのサウンドを作り上げていました。

スキャットはジャズなどの即興性の高い音楽に取り入れられることが多く、日本でも「夜明けのスキャット」や「恋のフーガ」でも聴くことができます。

吃音症と幼少期

スキャットマン・ジョン、本名ジョン・ポール・ラーキンは子どもの頃から吃音症という障害を抱えており、言葉を上手く発することができない、どもるなどの症状に悩まされていました。

そのため人前で喋ることに不安を抱え、言葉以外の表現方法を探しているうちにピアノと出会い、10代の頃からジャズクラブでジャズピアニストとして活躍をしています。

しかし次第にアルコールやドラッグに溺れるようになり、一時期は音楽と離れていた時期もありました。

40代になると妻の助けもあり、それらの依存症を克服すると共に、自身の吃音症とも真摯に向き合うようになります。

そこで吃音症を生かしたスキャットという歌唱法に出会い身につけることで、スキャットマン・ジョンが誕生することになります。

遅咲きのデビュー

40代後半から50代になり別の仕事をしていたスキャットマン・ジョンは、テクノやヒップホップのサウンドに自信のスキャットをミックスさせた曲を作ることで一大ヒットを成功させます。

吃音に悩む人たちに向けたメッセージや今までにない創作性の高いサウンドは世界中で大ヒットをして、日本でもアルバムが250万枚のダブルミリオンセラーを記録するなど爆発的な人気を博しました。

日本の吃音者団体とも交流があり、イベント活動に参加をしたり賞金を寄付したりなど、吃音者の社会的認知に向けても盛んに行動を起こしていました。

晩年になると咽頭がんを患っていたこともあって、ヴォーカルを他のアーティストに任せ、自身の音楽活動は控えることになりました。

1999年に亡くなってからも妻が率先してスキャットマン基金という吃音者団体を設立して、吃音に悩む人たちをサポートしています。

意外!桂ざこばさんもじつは吃音持ちだったらしい!

私はらくごのごで好きになりました。軽妙なトークで人気の落語家さんです。吃音を逆手にとった落語が特徴です。吃音を落語に活かすのは桂文福さんと同じですね。それでは桂ざこばさんの吃音人生を見ていきましょう。

幼い頃から波乱万丈の人生を歩んできた 桂ざこば氏

桂ざこば氏は小学校2年生の時に両親が離婚した上に警察官だった父親に引き取られるも3か月ほどで父親は自殺によって亡くなったのです。

その後、中学校へ進みそこでは学校をサボりながらも落語を見ていたそうです。その頃から3代目桂米朝の芸に惚れ込み、弟子入りを何度も何度も志願したのだが入れてくれなかったそうです。

そして弟子から言われた事は「高校だけでも卒業した方がいい」ということだったそうです。そして高校を志すも、中学時代の担任からは、「お前に行ける高校はないぞ」と言われ、その旨を聞いた米朝氏は入門を許可したのです。

またその入門前に就職を勧められ直前に働いたりと幼い思春期に波乱万丈な経験をしている桂ざこば氏であったのです。

お世話になった師匠との別れ

桂ざこば氏は3代目桂米朝の芸に惚れ込み、弟子入りをしたのです。そして彼は波乱万丈の人生を歩んできた時に、米朝師匠と家族同然の様に落語会を歩んできたのです。

そして落語家で人間国宝とまで言われた、桂米朝氏は89歳にして2015年に他界したのです。

桂米朝氏は2009年から数回に渡り脳梗塞を患っていたのです。

それでも、ひたすら持ってるパワーを持ち続け彼は何度も回復の兆しへ向かったりと戦ったのです。しかし、2014年にまた再度入院から危篤状態となり、2015年に桂米朝氏は他界したのです。

その後、弟子であった、桂ざこば氏はコメントを残したのです。

「こないに上手に、こないにキレイに亡くなるとは…」とここまで師匠と家族同然に過ごした人がこんなに戦い生き、天国へ行く時も素晴らしい終わり方をしたのだと思います。

いつしか華の舞台に

桂ざこば氏は波乱万丈な人生を経験しながらも桂米朝氏のところへ弟子入りしてから、稽古特訓の日々が始まったのです。

そこからいつの日にか、千日劇場やトップホットシアターに出演し、千日劇場では師匠米朝が司会する「お笑いとんち袋」のレギュラーとなったりもしたのです。ここまで落語会で詰め寄る事が出来たのは、桂米朝氏が家族同然に想い、本気の稽古や体を張ってその姿を見せてきたからだと思います。またテレビ番組の収録で吉本興業の花月劇場チェーンや、松竹の角座の舞台にも立ったり、全国的には「ウィークエンダー」での「テレビ三面記事」のレポーターとしての出演をしたりと気づけば全国を舞台にしていました。その後、大阪に拠点を戻すも、彼は様々な賞を受賞してきたのであったのです。

姜尚中さんは実は吃音者だったって知っていましたか?

学生の頃は在日韓国人2世という生い立ちやどもりで悩み、消極的で引っ込み思案だったらしいです。討論番組によく出演されていますが、まったく吃音者とはわかりませんね。それでは姜尚中さんの吃音人生を見ていきましょう。

日本名「永野鉄男」

姜尚中さんは熊本市で在日韓国人二世としてして生まれました。熊本県立濟々黌高等学校を卒業、早稲田大学卒業後、西ドイツのエアランゲン大学に留学をへて、教職の道を歩み始め、マスコミへの露出を始めるようになります。

そんな姜尚中さんですが、日本名「永野鉄男」を名乗り、早稲田大学在学中に、1972年の韓国訪問以降は姜尚中をなんるようになりました。この生い立ちについてはご本人が「生まれは熊本で本名は永野鉄男です。でも今から38年前、22歳の時に、思うところがあって姜尚中を名乗りました」と語っています。

しかし、そのきっかけが韓国訪問であることまではわかっていますが、実際のトリガーまでは明らかにされていません。

学長の辞任の事実は?

姜尚中さんといえば、自ら上尾の地に根を下ろして学び舎の職務を果たしたいということで就任した聖学院大学の大学長の地位を2014年4月に5年任期で契約していながら、約1年で辞任しました。

この理由について様々な憶測が飛び交いました。そもそも、大学側としても広告塔としての役割を期待しての就任だったのですが、影響力もあり、発言力をもつ姜尚中さんが大学の方針や経営に口出しをするようになり、意見の方向性に相違が出たということがその原因であると考えられます。ご本人はその原因については「諸般の事情」ということでそれ以上はコメントを差し控えているため、前述のようなうわさが飛び交い、おそらく高い確率で事実とされています。

家族については意外に知られていない

姜尚中さんの家族についてはあまりオープンに知られていません。著書執筆中に一人息子がなくなったことが、ご本人から伝えられました。その原因もどうやら心の病による服薬が影響してというところが事実のようです。呼吸困難による永眠という線がもっとも高い確率です。多くの出演番組でもここは本人が語らず、悲しい歴史として刻み込まれているよう。

また、奥さんとも離婚されてるといううわさがありましたが、ご自身の口から今でも出演番組で奥さんのことを語られるくらいですから、まず離婚はないでしょう。ただし、本人は息子さんのこともふくめ、家族を表に出すタイプではなく、これからもあらゆる露出に関しては本人のみとなることは予測されます。

清水宏保さんの意外な吃音治療方法とは

オリンピックの金メダルホルダーも子供の頃は吃音にも悩まされていたようです。今でもTVで見かけると吃音が出ていると思われるところがありますね。それでは清水宏保さんの吃音人生を見ていきましょう。

離婚原因は?!

清水宏保と高垣麗子は2010年3月に結婚しました。

高垣麗子は、当時押切もえや蛯原友里と並んでモデルトップ3といわれていました。

誰もが羨むお似合いのカップルでしたが、なんとわずか1年9ヶ月後の2011年12月に離婚しました。

北海道で選手せいかつを続けていた清水宏保と、東京でモデルを続けていた高垣麗子。ふたりの生活はすれ違いが多かったと言いますが、一番の原因は、残念ながら宏保の度重なる浮気だったとのことです。

週刊誌からは度々スクープされてしまいます。

そして遂に妻である高垣麗子から愛想を尽かされた、というのが実状のようです。

あれほどまでに美しい妻をもっても、浮気をしてしまう清水宏保。

今後、彼に春はやってくるのでしょうか。

実は○○コンなの?!

過去、日本のスケート界に大旋風を巻き起こし、偉業を成し遂げた清水宏保ですが、実は○○コンだったといううわさがあります。

それは、マザコンです。

あれだけの偉業を成すには、もちろんご両親のサポートは想像以上のものであったことでしょう。

今でも、清水宏保が実家に帰ると、とても細やかに世話をしてくれるそうで、旅館のように布団のシーツは糊がきいてパリッとしており、布団に入りやすいように少しわざとめくらせてある、とのこと。ちいさなエピソードからも、お母様の細やかな心配りが感じられます。

そして、普段からお母様は敬語で息子にお話をされるとのことです。

「~ですね。」「~してごらんなさい。」という風にです。

これを、過去には元奥さまにも求めてしまった、ということですから、少しマザコンなのかもしれませんね。

偉業達成はあのおかげ?!

清水宏保といえば、誰もが羨む認める伝説のスピードスケート選手です。

数数のオリンピックに出場し、長野オリンピックでは、日本人で初めての金メダルをとりました。そして、なんと銅メダルも合わせダブル受賞、その他ソルトレイクオリンピックやトリノオリンピックにも出場し、銀メダルもとりました。

その偉業を成す裏にはもちろん血のにじむような努力があったことでしょう。

実際、恋愛など楽しむことは一切なく、女性と交際することのないまま大學卒業を迎えたということです。

そこへのエネルギーを、全てスケートに向けて没頭し、結果につながったのですから、モテたかったと本人は言いますが素晴らしいことですね。

結婚後、スピード離婚してしまった清水宏保ですが、ぜひこちらでも金メダルを目指してほしいですねと