吃音でも藤沢周平さんのように生きる

藤沢さんも少年時代からの吃音に悩んでおられた一人です。吃音が治ったきっかけは中学時代に学級委員長級長をつとめ、人前で話す事に自信がついたためと話されています。「いつの間にかに治った」というところは脳科学に基づく吃音治療に通ずるところがありますね。それでは藤沢周平さんの吃音人生を見ていきましょう。

この人ってどんな人

日本の小説家で主に時代小説(武家もの)で大変有名な作家です。1927年12月生まれ、1997年1月26日に69歳で亡くなっています。代表作には「暗殺の年輪」「白き瓶」「蝉しぐれ」などがあります。映画化も多数されており、有名なものでは真田広之主演の「たそがれ清兵衛」永瀬正敏主演の「隠し剣鬼の爪」木村拓哉主演の「武士の一分」豊川悦二主演の「必死剣鳥刺し」東山紀之主演の「小川の辺」など。ちなみに東山紀之は藤沢周平の家族との日々の生活や直木賞を受賞するまでの道筋を描いたTBSテレビのドラマ「ふつうが一番」にも出演しています。藤沢の作風は武家ものでも池波正太郎や司馬遼太郎と異なり、慎ましい生活を送る下級武士の貧しくとも忘れない武士としての心得、自尊心を美しく描き上げています。

実は苦労人、波乱万丈な人生

藤沢周平は山形県鶴岡市の農家で生まれ、自身も幼い頃から農業の仕事を手伝いながら学校に通っていました。生活は決して楽ではないが、真面目に仕事をし、家族が仲良く平凡な毎日を暮らしていく農村風景が彼の作品に登場する主人公の日常と繋がっているように思います。山形県立鶴岡中学校の夜間部に入学し、昼間は印刷会社などで働きながら、夜は学校に通う苦学生でした。中学を卒業後師範学校に進み、県内の中学校の国語と社会の教師として勤務しますが、その後、結核のため、退職することになります。病気が治ってからは勤め口を探すのに苦労し、なんとか東京の業界新聞社に入社しますが、倒産が相次ぎ、各社を転々とすることになります。その後、結婚し、直木賞を受賞するまでは生活面では大変苦労されたようです。

こんなにもある受賞

藤沢周平が初めて「溟い海」でオール讀物新人賞を受賞したのが44歳の頃ですので、大変遅咲きの作家だったといえます。しかし、その翌々年の1973年には代表作「暗殺の年輪」で直木賞を受賞してから生活は一変、勤めていた業界新聞社を退職し、本格的に作家活動に入ることになり、その後はそれまで心に溜まっていたものを吐き出すがごとく精力的に作品を作り続け、順調に名だたる賞を受賞していきます。1986年に「白き瓶」で吉川英治文学賞を受賞、1989年に「市塵」で芸術選奨文部大臣賞、その後は作家としての受賞として1989年に菊池寛賞、1994年朝日賞、1995年には紫綬褒章を受賞し、亡くなる年である1997年には山形県県民栄誉賞を受賞することになります。

釈由美子さんもじつはどもっていた過去を持つ

現在では女優やタレントとして活動されている彼女ですが、子どもの頃はやはり吃音で悩まれていた時期があったそうです。しかし、幸いのもどりの症状が軽かったため、いつの間にか吃音は出なくなったとのこと。それでは釈由美子さんの吃音人生を見ていきましょう。

釈由美子さんはどんな人?

釈由美子さんは、97年大学在学中にヤングマガジンの「Missキャンパスグランプリ」に選ばれ、デビューをしました。その後、グラビアや女優として活躍しており、特にドラマ「スカイハイ」での印象が強く残っています。

愛称は「釈ちゃん」で、バラエティーに出演すると、少し天然っぽいトークを展開するなど、愛されるキャラクターです。

一方で、すごくメリハリのあるボディの持ち主で、セクシーキャラの一面もあります。

様々な恋愛歴を報道されていたり、整形疑惑やブログ炎上など、良くも悪くも話題に事欠かない芸能人と言えるかもしれません。

2015年10月にレストラン経営のイケメン実業家結婚し釈さんの38歳の誕生日にあたる2016年6月12日に第1子の男の子を出産しました。

釈由美子の整形疑惑

釈由美子といえば、度々整形疑惑でインターネットで騒がれています。昔の写真と比較してみると、鼻が高く、目が大きくなっており、びっくりするほど顔が違うので、整形は間違いないと言えると思います。他の芸能人も整形はよく行われていることだと思いますが、ここまで露骨に違いがわかることが珍しいので、話題になってしまったようです。

ともあれ、38歳で出産をし、今もブログなどで息子さんを育てながら活躍する釈さんの姿は、非常にたくましいですよね。ブログのコメントなども悪く言うとあざとい(よく言えば賢い)と批評されており、整形しても芸能界で長く生き残っていること自体がすごいことなのかもしれません。これからは赤ちゃんビジネスでもやるのかな?などと想像してしまします。

釈由美子さんのブログ炎上

釈由美子さんは過去の恋愛でも度々報道があったり、何かと話題に欠かない人です。

過去にはミュージシャンのGacktさんとの交際が報道されたり、イケメン獣医と結婚を前提に交際していることを明らかにしていましたが、最終的には実業家と入籍したことを発表しました。

最近は息子さんの話題を中心としたブログが話題です。

「私にとって、一番耐えられないことが起きまして」という言い回しで、あえて読者の想像を掻き立てたりするなど、戦略的にブログを活用しています。

また、息子の授乳の話を「先っちょだけくわえると、うまく吸えてなくて切れてしまう」などどエロティックとも思える表現をしており、読者からは「あえて想像させる言い回しをしていてあざとい」といった反応があるようです。

どもりがなんだ!田中角栄さんが吃音を改善した意外な方法

この方も吃音者として有名ですよね。第64代・65代内閣総理大臣。高校を卒業せずに総理大臣になった反面、凄腕として今でも伝説として取り上げられることもあります。しかも人を魅了するスピーチの天才として。このようなエピソードからは吃音者とは思えないですが、やはり幼少時から吃音に悩まされていたようです。しかし歌っている時だけ吃音が出ない事に気づき浪花節を歌って吃音を克服したという強者です。歌うときはどもらないというのはまさしく吃音の特徴ですね。それでは田中角栄さんの吃音人生を見ていきましょう。

人物紹介

田中角栄は1972年7月から1974年12月まで日本の内閣総理大臣を務めた人物である。

歴代の内閣総理大臣の中では、

最も有名な総理大臣の1人である事は間違いないであろう。

田中角栄は新潟県で7人兄弟姉妹の唯一の男子であった。

父親の事業の失敗により、

幼少期は貧しい暮らしを余儀なくされた。

戦後田中角栄は政界に進出するも収賄の容疑で逮捕されるなど、山あり谷ありの政治家人生であったが1948年に行われた衆議院総選挙に獄中立候補し、

保釈後の1949年に再選を果たすなど、

逆境に負けないエネルギーを持っていた。

1972年に内閣総理大臣に就任、

その後1974年に退任し、

退任後ロッキード事件の際に自民党を離党、

ロッキード事件の決着を待たずして1933年に没した。

田中角栄の政策

田中角栄の在任中の主な政策としてあげられるのが「エネルギー政策」と「日中国交正常化」である。

「エネルギー政策」は当時安全性において不安視されていた原子力発電の推進である。

日本は広島長崎の例もあり、

原子力発電には否定的な風潮であった。

もとより資源のほとんどない日本がエネルギー危機を回避するためには、

エネルギー供給源を分散し、

一部が使えなくても他で補えるようにという考えから、

原子力発電を推進したのであったが、

その為には原子力発電所を作る場所の住民の反発を「電源三法」を成立させ、

交付金などの形で地域の反発をかわした。

また、

「日中国交正常化」を成し得たことは田中角栄の大きな功績であるが、

これは田中角栄の行動力が成し得たことだといえる。

しかし田中角栄の外交能力に関してはその際のやり取りからは疑問視する声もある。

田中角栄の名言

田中角栄は様々な名言を残している、

その幾つかを紹介したいと思う。

「貸した金は忘れろ」

田中角栄に若手議員が100万円の借金を申し出た時、

田中の秘書がその議員に届けたのは300万円であった。

その中にはこう記されていた、

1、まず100万でけりをつけろ

2、次の100万でお前の不始末で苦労した周りの人たちに、うまいものでも食わせてやれ

3、次の100万は万一の為に持っておけ

4、以上の300万円は返済無用である

田中角栄の器の大きさがそうさせたのか、

なんともスケールの大きなひとではないだろうか。

「人を愛さなきゃダメだ」

これは人間はみんな出来損ないで失敗もする、

そんな人を愛せなきゃダメだ、

そこにしか政治はないし、

政治の原点はそこにあるんだ。

といった意味の言葉である。

幼い頃を貧乏で過ごした田中だから思うことなのかもしれない。

他にも田中角栄は数々の名言を残している。

賛否両論あるがどれも考えさせられる言葉だ。

篠田正浩さんの壮絶な吃音人生とは

この方も小学生の時に吃音がで始め、人との関わりを避けた結果、本を読む楽しさや知識欲を満たす喜びを知ったとのこと。この吃音体験が結果的に「瀬戸内少年野球団」「写楽」など数多くの名作を作り上げることに繋がったと話されています。それでは篠田正浩さんの吃音人生を見ていきましょう。

経歴

1931年3月9日、岐阜県岐阜市で生まれました。

早稲田大学第一文学部を卒業後、松竹に入社します。

その後、1966年にフリーとなり、翌年には独立プロダクション表現社を設立しました。

60年代後半から70年代前半は「心中天網島」(1969年)や「無頼漢」(1970年)

等の先鋭的な作品を独立プロダクションから連発。

70年代後半からは大手映画会社配給の大作が多くなっています。

1990年に「少年時代」で第14回日本アカデミー賞の作品賞、監督賞を受賞しました。

カンヌ国際映画祭のコンペディションへは3度の出品を果たしました。

その後、2003年に大作「スパイ・ゾルゲ」の製作を最後に映画監督からの引退を発表しました。

受賞作品

1970年 キネマ旬報作品賞・監督賞受賞 (『心中天網島』)

1970年 毎日映画コンクール作品賞受賞 (『心中天網島』)

1970年 アデレード映画祭批評家賞受賞 (『無頼漢』

1972年 毎日映画コンクール作品賞・監督賞受賞 (『沈黙 SILENCE』)

1977年 アジア太平洋映画祭監督賞受賞 (『はなれ瞽女おりん』)

1984年 ヒューストン映画祭外国語映画賞受賞 (『瀬戸内少年野球団』)

1985年 ブルーリボン賞作品賞受賞 (『瀬戸内少年野球団』)

1986年 第36回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (芸術貢献賞)受賞 (『鑓の権三』)

1991年 第14回日本アカデミー賞作品賞・監督賞受賞 (『少年時代』)

1991年 ブルーリボン賞作品賞・監督賞受賞 (『少年時代』)

1991年 毎日映画コンクール作品賞受賞 (『少年時代』)

1996年 第19回日本アカデミー賞編集賞受賞、作品賞・監督賞・脚本賞ノミネート (『写楽』)

1999年 富川国際ファンタスティック映画祭監督賞受賞 (『梟の城 owl’s castle』)

2010年 第38回泉鏡花文学賞受賞 (『河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶』)

妻・岩下志麻さんとのなれそめ

篠田正浩の奥様は映画「極道の妻」で有名な女優・岩下志麻さん。

来年(2017年)で結婚50周年となります。

二人のなれそめについては、ある雑誌のインタビューで、奥様の岩下志摩さんが語られていました。

二人が交際を始めるきっかけとなったのは、篠田正浩さんが監督を務めた映画「暗殺」の撮影終了後の打ち上げとのことです。

東京の赤坂のナイトクラブで打ち上げをしているとき、二人は当時流行っていたマンボを踊ることとなりました。

その時、岩下志麻さんは「あぁ、私はこの人と結婚するなぁ」とふと感じ、そのまま「私、監督と結婚する気がします」と伝えたのだそうです。

それを聞いた監督は唖然として踊りをやめてしまったそうですが、この出来事がきっかけで二人の交際がスタートすることとなります。

中坊公平さんは実は吃音者だったって知っていましたか?

結婚式のスピーチをした時に吃音が原因で場をしらけさせ、「弁護士なのに弁がたたない」と言われるという、同じ吃音者として胸が痛くなるようなエピソードがあります。それでは中坊公平さんの吃音人生を見ていきましょう。

中坊公平さんとは

 中坊公平さんは、その昔数々の難事件の解決に挑み、苦しむ人々を救った、弁護士の鏡ともいえる人物です。弁護士といえば、犯罪の被害者を救う立場でありながら、犯罪に被疑者の弁護もするので、いいイメージを持っていない人もいるかもしれませんが、中坊公平さんは、犯罪で苦しむ被害者の立場にたって、弱者を助けるために一生を注いだ人物です。京都大学を卒業後、弁護士となり、数々の難事件に挑み、社会的にも評価されましたが晩年、住宅金融専門会社(住専)の社長となり、組織改革や債務回収などに当たる中で、詐欺行為に当たる不透明な会計処理があったとされ、その責任を取る形で弁護士を廃業し、弁護士業に復帰することなく亡くなっています。

中坊公平さんが手掛けた「森永ヒ素ミルク中毒事件」とは

 「森永ヒ素ミルク中毒事件」とは、1955年(昭和30年)の6月頃から、西日本一帯を中心として多数の中毒患者が出た事件です。この事件は、ヒ素が混入した森永乳業製の粉ミルクを使用して、その製品を飲んでしまった乳幼児が中毒症状にかかってしまい、多数の死者、中毒患者が出てしまったというものです。

 現在では、頻繁に食の安全というものが叫ばれる事がありますが、この事件が日本で初めて食の安全というものが問われた事件だと言われています。中坊幸平さんは、この難解な事件の弁護団長に就任して、被害者の救済などに奔走して、被害者の弁護に奔走し、被害者の立場に立った弁護活動を行い、その弁護活動から、弁護士としても注目されるようになりました。

中坊公平さんが解決した「千日デパート火災」とは

 千日デパート火災(せんにちデパートかさい)とは、1972年(昭和47年)に現在の中央区にあった千日デパートで起きた火災事故のことをいいます。戦後史上に残る多数の死者、負傷者が出た事件で、死者118名、負傷者81名という被害者数は、日本のビル火災の中でも史上最悪の大惨事となったことで知られています。

 この事故で、多数の死者、被害者が出たために、その遺族や被害者は、ビルを経営する会社に対する被害補償を求めて訴訟を起こすこととなりました。火災を起こしたビルは、その後撤去され、同ビル内に入っていたテナントなどが強制退去させられることとなりましたが、デパート再興を願う人たちが、訴訟を起こしその弁護団長に中坊公平さんが担当する事となりました。

三遊亭円歌さんの意外な吃音治療方法とは

もともとは鉄道マンだったらしいのですが、なんと吃音を克服するために落語家になられたとか・・・。こうしてみると小倉智昭さんにしても吃音なのに「あえて話す仕事」を選ぶところがすごいですね。弟子入りした師匠も同じ吃音者だったらしく、この事を自ら「落語界七不思議の一つ」と言っておられるそうです。ちなみに幼馴染であったフリーアナウンサーの小川宏さんの真似をして吃音になられたなんてエピソードもあります。それでは三遊亭圓歌さんの吃音人生を見ていきましょう。眼鏡をかけて高座をつとめるなど今までの落語界の常識を打ち破る事を行い「落語界の異端児」の異名を持つ。

3代目三遊亭円歌とはどんな人か

落語に詳しい人で泣けば、三遊亭円歌(圓歌)の顔はすぐに浮かんでこないかもしれません。

そもそも、初代三遊亭円歌は本名が泉清太郎という人で、1876年生まれ、日露戦争を経て初代円歌を襲名し、52歳で亡くなっています。二代目は本名田中利助といい、モダンで艶っぽい芸風が世に好まれました。74歳で亡くなっています。

そして、三代目が中沢信夫です。一時期は「笑点」の大喜利メンバーだったこともあり、大変人気がありました。もともとは吃音を克服するために落語を始めたという話も衝撃的ですし、円歌襲名後に仏門に入ることなど、数々の面白いエピソードがあります。

また、落語会で初めて黒以外の紋付をきて高座を務めたり、メガネをかけたりと、過去になかったことを色々チャレンジしたのも三代目です。

吃音克服のための落語

三代目三遊亭円歌には吃音がありましたが、それに関するエピソードで衝撃的なものがあります。落語家になれば吃りが治るのではないかと思い落語を志したといいますが、実は二代目も吃音だったそうです。吃るたびに師匠に豆を力一杯投げつけられ、投げられたくなかったら吃るな、と言うそうです。最初は投げつけられた豆の量が1000以上あったのですが、それが段々少なくなっていきました。投げつける師匠の顔を見ると師匠は泣いていたということでした。

たまたま、師匠の所に行ったら、師匠にも吃りがあったとのことで、それは偶然でした。師匠は落語の時には一切吃りませんが、弟子を怒鳴るときなどはひどく吃っていたそうです。

自分のコンプレックスをバネに頑張ることは、そうそう簡単にできることではありません。その苦しみを理解できる師弟だった子その関係性だったのではないでしょうか。

笑いとは何か

今はお笑いブームと言われる時代ですが、三代目三遊亭円歌の考える笑いとはどういったものなのでしょうか。

三代目三遊亭円歌が若手の頃に、誰が寄席で一番笑いをとるかを競ったそうです。その時に、何もしゃべらずに舞台を横切るということをやった人がいて、ものすごくウケたそうです。

当時は粋な客が多かったと円歌は言います。確かに、今の時代にそれをやったら、客は笑うでしょうか。もしかしたら、せっかく寄席を見に来たのに金返せなどと言うかもしれません。

当時の笑いは、面白い話を聞くということだけでなく、今までになかった新しい方法を評価していたようなものだったのかもしれません。今よりももっと芸術性の高い領域に笑いがあったのでしょう。

大江健三郎さんもじつはどもっていた過去を持つ

日本で2人目となるノーベル文学賞を受賞された方です。吃音エピソードも語られますが、吃音よりはむしろ温かい人柄を感じさせるエピソードです。それでは大江健三郎さんの吃音人生を見ていきましょう。

デビュー前から才能を発揮!

大江健三郎氏は高校生のときに文芸部に所属し、自ら編集した本に詩や評論などを載せていました。

また大学に入学してからは演劇の脚本や小説、戯曲などを書き始めたました。

こうした活動の中で「火山」という作品が銀杏並木賞を受賞し、全国学生小説コンクールでは「優しい人たち」が佳作、「獣たちの声」は創作戯曲コンクールに当選するなど、デビューする前からその才能を遺憾なく発揮していました。

そして東京大学新聞に「奇妙な仕事」という小説が載ったことがきっかけで、作家としてデビューすることになったのです。この作家デビューをしたときの大江健三郎氏は、まだ大学在学中だったというのですから驚きです。

こうして学生作家となった彼はその後も続々と作品を発表していくのでした。

ノーベル文学賞受賞への道のり

大江健三郎氏は1994年に日本文学史上、二人目のノーベル文学賞を受賞しました。ですがそれまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

1935年愛媛県に生を受けた彼でしたが、1941年には太平洋戦争が始まります。このとき彼はまだ小学生でした。

その後戦争が終わるも1951年高等学校に入学した後、いじめが原因で別の学校へ編入するといったこともありました。

それから2年後の1953年には上京し、予備校へ通うこととなり、その翌年にようやく東京大学教養学部に入学することになるのです。

この大学時代に作家デビューをしますが、一度は芥川賞候補となりながらも落選してしまいます。

ですが彼はここで挫けることなく、その翌年若干23歳にして芥川賞を受賞するのです。

大江健三郎の政治的思想とは?

大江健三郎氏は自らを戦後民主主義者と主張し、日本での天皇制には終始批判的な立場を取ってきました。さらに自身のエッセイや公演においても憲法や核、自衛隊など、日本における様々な問題に対して言及しています。

さらに2003年に起こった本国の自衛隊イラク派遣については、人道的支援までに留めるべきだとし、日本のアメリカ追従の姿勢に対して疑問を投げかけました。

その後も小泉純一郎元首相の靖国神社参拝、竹島や尖閣諸島問題など国や政治について自身の考えを様々な場で述べています。

このように独自の政治的思想を様々なメディアで発表したり、自分の作品内で主張したりといったことを行っているのです。ですが非常にデリケートな問題にメスを入れるため、時折批判されることもあります。

村田喜代子さんの壮絶な吃音人生とは

幼いころから吃音で子供時代は名前が言えなくて大変悩んだそうですね。自分の名前が言えないというのは吃音の代表的な症状の1つです。吃音は今も治ってはいないらしいですが、大人になったらさほど吃音のこと自体が気にならなくなったらしいです。ここらへんはやはり脳科学による吃音治療と通ずるところがありますね。それでは村田喜代子さんの吃音人生を見ていきましょう。

村田喜代子ってどんな人?

1945年4月12日生まれの、現在71歳で、梅光学院大学(山口県下関市にある大学です)文学部の客員教授を務めています。

福岡県北九州市八幡西区に生まれ、現在は福岡県中間市に住んでいます。

(村田さんの旧姓は貴田さん)

村田さんがまだお母さんのお腹にいる頃にご両親が離婚、戸籍上は祖父母の子、ということになっています!

さらに就学時年齢の1年前に入学通知が届き(驚きの市役所のミスだったそうです)、1951年わずか5歳で小学校入学することになります。

中学校卒業後にすぐ鉄工所に就職を決めて、1967年22歳でご結婚、姉妹を授かりました。

村田さんは吃音持ちで、今でも矯正できていません。

ただ悩んだのは幼い頃だけで、社会人になると気にならなくなったそうです。

びっくりの受賞歴!

結婚後10年して執筆した(当時はタイプライターで書いていたそうです)「水中の声」で1977年(当時32歳)に第7回九州芸術祭文学賞最優秀作を受賞したのを皮切りに、40代では1987年「鍋の中」で芥川賞(42歳)、1990年『白い山』で女流文学賞(45歳)、1992年『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞(47歳)を受賞しています。

50代では、1997年『蟹女』で紫式部文学賞(52歳)、1998年『望潮』で川端康成文学賞(53歳)、1999年『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞(54歳)。

60代では、2007年 紫綬褒章(62歳)、2010年『故郷のわが家』で野間文芸賞(65歳)、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞(69歳)。

70代に入った今年も、2016年 『春の叙勲』で旭日小綬章(71歳)と、年齢を重ねても全く衰えることはなく続々と栄誉ある賞を授与されています。

現在、泉鏡花文学賞に加え、ご自身も受賞した紫式部文学賞&川端康成文学賞の選考委員を務めています。

どんな作品があるの?

村田さんの作品は様々ありますが、どのような作品があるのでしょうか?

一部簡単にですが、ご紹介します。

「鍋の中」・・4作品が収められていて、怪しげな魅力が詰まっています。紫綬褒章を受賞され、天才と名高い村田さんですが、1人の少女の心情とその時の情景を緻密に描けるのは村田さんしかできない、という納得の作品です!

「ゆうこじょう」・・こちらも短編集で、熊本から遊郭に売られてきた少女の視点から描いた、遊郭の女性たちの生き様を描いています。主人公イチがとっても魅力的で、女の強さ・弱さを目に浮かぶようです。こういうテーマを扱った作品にしては、かなり明るめのタッチです。

「焼野まで」・・3.11の東日本大震災からわずか数日後に、ご自身が子宮ガンであることが発覚し、放射線治療を受けた村田さんの体験談です。村田さんは原発の存在への疑問を投げかけたかったのではないか、と思わせる作品です。